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能「葵上」を見る

4月26日(日)14:00〜16:30
第588回大槻能楽堂自主公演能 を見る。
宗教学者 山折哲雄氏によるお話のあと、
狂言「鬼ケ宿」(シテ:茂山千五郎、アド:茂山七五三)
能「葵上」(古式)(シテ:多久島利之)


「葵上(あおいのうえ)」に関しては、謡本(昭和4年の第10版 定価30銭)もあり、
録画した映像(2009年3月7日放送 第23回NHK能楽鑑賞会 シテ:本田光洋)があったが、
特に注目していた作品だったというわけではない。
当日思いたち、演目も詳しく確認せずに出かけた。


どの作品をみても感じることであるが、
ストーリー・舞台装置・動きのそぎ落とし方に洗練を感じる。


源氏物語を扱った作品。
題名となっている「葵上」は、
光源氏の初めての正妻の名であるが、
彼女は、この舞台では病に臥せっており動けぬ身であるため、
舞台中央に2つ折りにされた衣のみで表現されている。


葵の上が臥せっている原因は何かを
照日の神子(てるひのみこ)という梓巫女(≒シャーマン)に調べさせたところ、
光源氏の以前の恋人であった六条御息所の嫉妬心から生まれた生霊のしわざだということがわかる。
六条御息所はまだ生きており、彼女が呪いをかけているというわけでもない。
彼女が葵上に対して嫉妬心を持つあまり、彼女の意に反して自然と生霊が生じてしまったといった設定)
比叡山の修験者である横川の小聖が呼ばれ、この生霊に向けて加持祈祷が行われるが、
六条御息所の生霊は怒りをあらわにし、横川の小聖におそいかかろうとする。
最後は、横川の小聖の法力により浄化され去っていく。


山折哲雄さんが、お話の部分で指摘されたとおり、
本当に浄化されたとは思えない状態で去っていく。
何も解決されないまま、正体だけがさらされ、六条御息所が恥ずかしい思いをしただけで終わる。

紫式部源氏物語において、日本人離れしていると言ってよいくらい執拗に男女の三角関係を描いている。
彼女のこの能力はドストエフスキーバルザックスタンダールと同水準の優れたものだと思う。
同じように、夏目漱石も三角関係を執拗に描いた。
そして、源氏物語、能「葵上」同様に、三角関係の一角が崩れ対の関係になっても、
関係は不安定なまま、観客・読者はカタルシス(抑圧の解放)を得られないまま終わっていく。

能のクライマックスは、それまで穏やかだったシテ(主人公の怨霊)が、
次第に怒りを表わし、その息・動きが地唄の声と一体になるところであると思う。


悪霊が退治されるという単純な構図ではなく、
この怨霊にも共感や哀れみを覚えるからこそ、
声と音と舞とに感情移入できるのだということを改めて体感した。

観客の多くが、シテのセリフを手元冊子で追っていたが、
ストーリーの流れさえ把握していれば、特に言葉の意味は重要ではないと思う。


(御能狂言図巻(国立能楽堂蔵)より「葵上」)

能を考える (中公叢書)

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