じっくり

夕方、自室のとなりの部屋で読書。
隣室は西向きのバルコニーのあるプライバシーがあまり保たれない部屋だが、
光の入り方が適度であり、心地よい風も抜けて快適。
10年前までは自室として使っていたこともあり、
当時の感覚もよみがえり、自宅にいながら日常から少し脱する。


今年4月に発売された中沢新一氏の対談集「惑星の風景」を読む。
そこで語られる内容は原発問題や様々な現代的な問題も含んでいるが、
吉本隆明梅原猛南方熊楠折口信夫柳田國男宮沢賢治河合隼雄小林秀雄
レヴィ=ストロースカール・ユングといった中沢新一氏が信頼を置いている先人の考えを
含んで述べられ、初めて読む本だけれども、親しみを持って読め、心地よく、イメージも膨らんだ。
それぞれ一人ひとりは「折口学」、「・・学」と言われるような立派な思想体系をなしている人ばかりで、
私は彼らを充分には理解できてはいないのだろうれども、勝手に親しみを覚えており私の蔵書も建築以外は彼らが中心。


大人の本が読めるようになってからずっと、
中沢新一氏が関心を持っている事象、人物、文化にとても興味がある。
おそらくいつからかそれは癒着してしまって、
彼の受け売りなのに「私の考えと全く同じだ!」という状態になってしまっている。


新しい情報の場合は、「ここからエッセンスを早く、正しくつかまなければ」という読み方をしてしまい、
読んでいる時間を純粋に楽しめないが、今日は読んでいる時間を楽しむことができた。
その感覚を味わうと、Facebookなどに断片的な自身の出来事の情報を書き込んでいたことに違和感を覚えた。
それらを投稿しているときは、ひとつのまとまりのある出来事のように思えるのだけれど、
やっぱりそれは、断片的すぎて、意味を持ち得ないのではないか・・・と。
コミュニケーションと情報開示を混同させてしまっていたのだと思う。
少なからず、自己承認欲求があったから、投稿していたのだけれども、
そこで本当にコミュニケーションを欲していたのかと言えば、そうでもなかった。


関連して梅原猛著作集19巻「美と倫理の矛盾」に収録されている「孤独と創造」というエッセイを読むと、
ニーチェマルクスの孤独(周囲の人々の無理解、孤立)について述べられていて、
その状態があったからこそ、歴史的な著作が完成したのだと述べられていた。
(ただこのエッセイで言わんとしているところは、
「だから私も喧騒なだけの大学教授の職をすべて辞めて孤独に創作します)」ということであるのだが・・)


10年前、この隣室で寝起きしていたころの私は、
今よりもずっとコミュニケーションの少ない生活、そして一つのものを生み出すにとても時間を費やす生活をしていた。
それはそれで価値あるものだったし、今のやり方よりもあるいは正しいのかもしれない。
親しみある情報をじっくりと時間をかけて読み込むということが、自身の一番の理想的とする生活かもしれない。
とも思った。老後にとっておくのはもったいない。