弱い世界・弱い論理

朝刊の岩波書店の新刊案内広告に
高橋源一郎「101年の孤独」が掲載されていた。
好きな人物なので、先週末購入し、仕事の移動中に読んだ。

著者初のルポルタージュとのことで、
日本各地、そしてイギリスを訪ねて、その報告を記している。
男性ファッション誌に掲載されていたので、そんなに難しい内容ではないが、
明るい内容でもない。


著者が弱い人々の施設・団体・島を訪ねる。
ここで具体的にその「弱さ」を記すことは誤解を招くことになると思うので、
あえて記さない。
「弱い」とひとからげにすることは、失礼なこととも捉えられかねないが、
全体を読むと失礼なことではないことがわかると思う。
ヒロインが死んだり、重病になったりする興行映画のような雑な弱者の扱い方は決してしていない。
著者が見出した「弱い人々」に共通する世界・論理。そして文学の世界・論理。
その二つは、極めて似ている。と高橋さんは主張する。


118ページあたりに、以下のような文章がある。

・・・
それは、その「弱者」と言われる人たちの世界が、
私がもっとも大切にしてきた「文学」あるいは「小説」と呼ばれる世界に、
ひどく似ていることだ。
彼らの住む世界は、私たちの世界、
「ふつう」の人びと、「健常者」と呼ばれる人々の住む世界とは少し違う。
彼らは、私たちとは、異なった論理で生きている。
一見して、「弱く」見える彼らは、私たちの庇護を必要としているように見える。
だが、彼らの世界を歩いていて、私は突然、気づくのである。


彼らがわたしたちを必要としているのではない、
私たちが彼らを必要としてるのではないか、ということに。
彼ら「弱者」と呼ばれる人びとは、
静かに、彼らを包む世界に耳をかたむけながら生きている。
彼らは、あくせくしない。彼らには、決められたスケジュールはない。
彼らは、弱いので、ゆっくりしか生きられない。
ゆっくりと生きていると、目に入ってくるものがある。
耳から聞こえてくるものがある。
それらはすべて、わたしたち、「ふつう」の人たちが、
見えなくなっているもの、聞こえなくなっているものだ。


また、彼らは、自然に抵抗しない。
まるで、彼ら自身が自然の一部のようになる。
私たちは、そんな彼らを見て、疲れ座っているのだ、とか、
病気で何も感じることができなくなって寝ているのだ、という。
そうではないのだ。彼らこそ、「生きている」のである。


「文学」や「小説」もまた、目を凝らし、耳を澄まさなければ、
ほんとうは、そこで何が起こっているのか、わからない世界なのだ。

私は、それをわかっている。というつもりはないけれど、
「そこで何が起こっているのか」にとても興味がある。


金曜日、少し早く帰ることができたので、
夜9時まで開いている近所の図書館に入った。
利用者は中年男性が数人いるだけで、とても静か心地よい。


・「群像 2013年11月号」
高橋源一郎「さよなら クリストファー・ロビン」(2012年)
・山片三郎「続建築徒然草」の3冊を借りる。


何気なく手にとった群像バックナンバーだけれども、

綿矢りさ「いなか、の、すとーかー」
安藤礼二折口信夫の髪」(評論)
佐々木敦近代文学VS近代絵画」(批評)
保坂和志×磯崎憲一郎「小説はなぜ面白いのか 長編「未明の闘争」をめぐって」(対談)
川上未映子「愛とか夢とか」リアリズムが見せる風景 (インタビュー)

と興味ある特集がたくさんあった。

群像 2013年 11月号 [雑誌]

群像 2013年 11月号 [雑誌]


夜、某回転寿司店に行くと、長い順番待ちが出来ていて15分待つ。
回転寿司へ行くのは3度目、夜に来るのは初めてで、夜は余計に、
自分も回転寿司の回転のシステムに含まれたみたいな不思議な感覚になった。
店員が番号でお客さんを呼び、お客さんは別の席番号の席に座り、
流れてきた寿司を食べて、皿を皿数カウンターに投入する。
学生という低賃金労働者に大きく依存し、
彼らはまた別のショップで消費者として振る舞う。
この流れが好きではない私は、
「特別な家庭の事情がない限り学生の就業は認めない」と決めればいいのに思うが、
多くの経済団体の圧力と、学生自身の「アルバイトも大切な社会経験だ」という主張などで、
絶対この状態は改まらない。コンビニなどで中国の人が増えたのも、
結局は、大変な仕事でも安く雇用したいということなのだと思う。
「当たり前ではないか!」という主張に対して、
弱い論理しか持たない私はうまく反論することができない。