思春期的な承認欲求について

精神科医で評論家の斎藤環さんの近著「承認をめぐる病」を読む。


斎藤環さんの本及びTwitterは、難しい内容でも、
「わかる人だけついてくればいい」という姿勢ではなく、
「読んで下さい」という姿勢なので共感が持て、7冊目の購入。
(といって、その内容をすべて理解できているわけではない)
(彼のTwitter斎藤環 (@pentaxxx) | Twitter


以前からこの本のテーマでもある「承認されたい」という人間の欲求と、
それが満たされないことでおこる病理、事件に関心があったので、
関連する本を読んだことはあったが、どうすればいいのかまでを述べる本は少ない。
「承認」に関する文章は主に前半部のみ、簡潔なものではあるが、
本来どうあることが望ましいのか?や対処法も示されている。


以下、思春期のコミュニケーション・キャラ化・承認について触れた部分引用する。
(ページ順不同に抜き出しています)

現代の(特に子どもたちの)対人評価軸は、勉強でもスポーツでもなく、
「コミュ力(コミュニケーション・スキル)」に一元化されつつあり、
いまやそれは、単なる「若者の気分」を超えて、
一種の職業倫理のようなものにすらなりつつある。
その結果として、コミュニティブであることは無条件に善とみなされ、
コミュニケーション・スキルの有無は就活などをはじめとして、
しばしば死活問題に直結する。


私が問題と考えるのは、ここでいう「コミュ力」が、
必ずしも適切な自己主張とか議論・説得の技術などを意味しないことだ。
大切なのは次の2つ
「場の空気を読む能力」と「笑いを取る能力」なのである。
(だからこそ、「お笑い」がコミュニケーションの教科書になる。)


「キャラクター」といっても、必ずしも「性格」を意味しない。
「キャラ」は本質とは無関係な「役割」であり、
ある人間関係やグループ内において、その個人の立ち位置を示す座標を意味する。
クラス内のコミュニケーションを通じて、半ば自然発生的にキャラの棲み分け、
ないし振り分け(「キャラがかぶる」ことがないように)がなされ、クラス内
の位置づけが決定されるのである。
いったん決定されたキャラは、個人の意志で変更することは難しい。


「キャラ」文化の最大のメリットは「コミュニケーションの円滑化」である。
自分のキャラというコードが便利なのは、もともとの性格が複雑だろうと単純だろうと、
一様にキャラという枠組みに引き寄せてしまう力がある。
若い世代のコミュニケーションはツッコミやいじりなどを通じて、
「キャラの相互承認」に終始しているような場合がしばしばある。
筆者はこの種の情報量の低いやりとりを「毛づくろい的コミュニケーション」と読んでいるが、
これなどはまさにカースト上位者=コミュニケーション強者にのみ許された
高等テクニックなのである。


キャラはコミュニケーションをスムーズにする反面、
自分のキャラを逸脱した行動を常に抑圧するという副作用を併せもつ。
つまり忠実にキャラを演じ続けることで、
人格的な成長や成熟が抑え込まれてしまう可能性もあるのだ。


多くの思春期の子どもたちにとって「キャラとして承認されること」が最も重要である。
キャラを与えられないこと、それは教室空間内に「居場所」がないことを意味する。
「キャラとしての承認」を求めること、
それは承認の根拠を全面的に他者とのコミュニケーションに依存することだ。
これは客観的な評価軸のない極端な流動性に身を任せることになる。


若い世代にとっての就労はもはや「義務」ではない。
彼らが「就労したい」と望むのは、基本的に「承認欲求」のためのなのだ。
それは仕事仲間からの承認ということだけではない。
例えば20代半ばを過ぎても就労していないという状況はかなり「ヤバい」。
人としての義務を果たしていないからヤバいのではない。
食えなくなるからヤバいわけでもない。
就労していないことで仲間から承認が得られず、
むろん異性からも受け入れられなくなってしまうことがヤバいのだ。


「承認の病」を回避する方法
1:他者からの承認とは別に、自分を承認するための基準をもつ
2:「他者から」の承認以上に「他者への」承認を優先する
3:「承認の大切さ」を受け入れつつも、ほどほどにつきあう

私が求めるものは「承認」よりも「関係」であり、
「コミュニケーション」よりも「ダイアローグ(対話)」である。

テレビの中の大人は特異なケースであるとしても、
「居場所」や「自分らしさ」などについて考えようとするとき、
ここで言われる「コミュ力」や「キャラ化」を自身も演じ、
また、他者にもそれを当てはめようとする傾向は私の中にもあり、
むしろ人と人の関わりはそういうものなのではないかとすら思い違いしていた部分もあった。
「空気を読むこと」も「笑いを取ること」も半ば放棄している私においては、
むしろ、それが人と人の関わりの主の部分ではないということに自覚的でありたい。
(よい意味で空気を読めない人でありたい。・・そんな都合のいいキャラ設定が許されるのだろうか・・)

承認をめぐる病

承認をめぐる病