術と道

昨日昼、Eテレ鈴木大拙に関する番組が放送されていたので、
昼食を取りながら見た。

出演されていたのは聖路加国際病院理事長の日野原重明さん(102歳)
鈴木大拙の秘書を務めておられた岡村美穂子さん
きき手は鈴木大拙館館長の木村宣彰さん


日野原重明さんは晩年の鈴木大拙の主治医を務められ、
最後も看取られたとのこと。
鈴木大拙が亡くなって(1966年)から50年近く経つ今となって
このような関係者による対談が行われるはすごいことだ。


就職活動に乗り気でなかった私が珍しく最終面接まで行き、
その会社の社長から「人生を変えたような印象深い言葉はありますか」と質問をされた際、
そつのない返答ができない私は糞真面目に鈴木大拙の言葉を引いた。
「人生の目的は人間的人格の完成にある」という言葉。
おそらく、それは角川文庫ソフィア「禅とは何か」に記載されていた言葉だと
思うのだけれども、今、その本を探してもその言葉に辿りつけない。


その言葉の示す意味は、極端に言えば、
「人間が生きている意味は、誰かのためになることでもなく、
出世することでも、お金を儲けることでも、賢くなることでも、
幸せな家庭を築くことでもなく、「いい人」になることなのだ。」
というようなことだと思われる。(深い意味での「いい人」ですが・・)
当時の私は人格形成は手段にすぎないとどこか思っていたので、
それそのものが目的なのだと示されてすごい発想だと関心した。


その面接の社長は、鈴木大拙を知らず、
またその言葉が意味するところを私も充分に説明できず、
それが原因ではないが、私はその会社に受からなかった。


先日、読み返していたオイゲン・ヘリゲル著「日本の弓術」(1936年初版)にも、
これに似た内容が述べられており、また鈴木大拙著作にも言及されている。


(以下、柴田治三郎の訳文)

日本人は弓を射ることを一種のスポーツと解しているのではない。
初めは変に聞こえるかも知れないが、徹頭徹尾、精神的な経過と考えている。
したがっって日本人の考え方によれば、弓を射る「術」とは主として
肉体的な修練によってだれでも多少は会得することのできるスポーツの能力、
すなわち「あたり矢」がその標準と考えられるような能力ではなく、
それとは別の、純粋に精神的な鍛錬に起源が求められ、
精神的な的中に目的が存する能力、したがって射手は実は自分自身を的にし、
かつそのおそらく自分自身を射当てるに至るような能力を意味している。


弓術についても言いうることは、墨絵、茶の湯、歌舞伎、生け花、剣術その他
もろもろの術と同様である。またそのことはさしあたり、これらの術はいずれも、
精神上のある態度を前提として有し、術の種類によってそれぞれ多少の差はあれ、
そうした態度を意識的に培っているということを意味している。


弓と矢は、かならずしも弓と矢を必要としないある事の、いわば仮託に過ぎない。
目的に至る道であって、目的そのものではない。
この道の通じるべき目的そのものは、簡単に言ってしまえば、
神秘的合一、神性との一致、仏陀の発現である。


日本人は、自分でそれを説明できるかどうかは別として、
禅の雰囲気、禅の精神の中で生活している。

日本の弓術 (岩波文庫)

日本の弓術 (岩波文庫)

ドイツ人のオイゲン・ヘリゲル(Eugen Herrigel)は1924年からの5年間
東北大学旧帝大)で哲学の講師を勤めながら、
弓道家の阿波研造のもとで弓道を学び、5年経って免状を受けるに至る。


免状を受けるまでの葛藤は、
ハリウッド映画などでも見られるような、
西洋と東洋の文化の出会い、あるいはカンフーの達人の特訓に似たようなストーリーで、
少し陳腐さを覚えるが、
「目的に至る道であって、目的そのものではない。」という部分には、
大学時代も今も興味を惹かれている。


それは千利休の茶道を伝える「南方録」の巻頭にみられる

小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て修行得道する事なり。
家居の結構、食事の珍味を楽とするは、俗世の事なり。
家は漏らぬほど、食事は飢えぬほどにてたる事なり、
これ仏の教え、茶の湯の本意なり

南方録 (岩波文庫)

南方録 (岩波文庫)

と述べられるところと同じであると思う。


当時の一般の人々が、本当に禅の雰囲気、禅の精神の中で生活していたのかは、
よくわからない。
ただ、今、そのような前提のもとで、活動している人は、
とても少ないと思うし、それを語れば、それを極めて成果を残している人で
ない限り気持ち悪がられるのではないか。

おそらく、そのように他人を意識してしまう時点で、道からは遠いのだろうけれど。


オイゲン・ヘリゲルが日本に滞在していた時期、
日野原先生はすでに中学・高校生。