マイノリティの権利とろう文化

先週触れた「ブータン・「幸福な国」の不都合な真実」の著者 根本かおるさんが、
TBSラジオ荻上チキさんの番組に出演されているのを見つけポッドキャスト版で聞いた。
2013年11月06日(水)根本かおる1「NEC WISDOM Square」 - 荻上チキ・Session-22


ブータンの著書は昨年発売されたものだが、
その後、彼女は国連の機関である東京国連広報センターの所長に就任され、
ますます活動の幅を広くしている。
テレ朝の女子アナからの転身後の彼女の一貫するテーマは、
「マイノリティ(少数派)の権利に対する意識。声なき声に光を当てたい」というもの。


金曜日、仕事の帰りにブックオフに立ち寄り、
「ろう文化」(現代思想編集部編 青土社)が目についたので購入した。(500円で購入)
2000年に発行された本であるが、雑誌「現代思想」臨時増刊号を再発刊したものであり、
記載内容は雑誌の発刊時の1996年の状況について述べている。

ろう文化

ろう文化


2008年9月に放送されたETV特集「手の言葉で生きる」で、
ETV特集 9月21日(日)
手話には2種類の手話があり、ろう学校で通常教えられる手話は、
ろう者にとっては使いにくい手話なのだという事実を驚きとともに知った。
(その時記したブログ:ETV特集「手の言葉で生きる」を見る - 心象図録
(2種類とは、日本語という言語を意識しないろう者独自の言語としての手話である「日本手話」と
日本語の文法・語彙をもとに作られた手話「日本語対応手話」(シスコン(simultaneous communicationの略)とも言われる。)の2種類)


その時は、このジレンマは2008年当時になってようやく問題意識されはじめたことなのだとばかり
思っていたが、この本が発刊された1996年当時には、
すでに問題になっており、番組の提唱は、まさにこの本をなぞったものと言える。
(番組で紹介された平塚ろう学校の加藤先生の授業は下記に引用したバイリンガル・アプローチという手法だと思う)
この本は、この本出版から1年さかのぼる1995年3月に雑誌「現代思想」に掲載された
木村晴美氏・市田泰弘氏による「ろう文化宣言(言語的少数者としてのろう者)」という論文を
出発点として、各章の執筆者が、この宣言に共感する部分・問題点などについて述べていたものである。


以下はその巻頭の「ろう文化宣言」からの引用

手話は、音声言語を使うことのできない人のための、”不完全な”代替品だと一般には考えられている。
日本の識者たちの中で
「手話は音声言語に匹敵する複雑で洗練された構造をもつ言語である」
ことを理解している者はごくわずかである。


アメリカでは、ろう者の手話が言語として認められていく過程で、
デフ・コミュニティー(deaf community:ろう者社会)を言語的少数者、文化的集団としてとらえる視点が生まれた。
ろう者自身も、自分たちの言語と文化に対する自身と誇りを取り戻し、
自分たちを障害者というよりは、むしろ言語的少数者として扱うよう社会に対して求め始めた。


ろう学校では歴史的に、音声言語の教育が最大の目標と考えられてきた。
耳の聞こえない子どもは、周囲のことばが耳から入らず、自然な状態では音声言語を習得できない。
そのため、特別な訓練と教育によって音声言語を習得させることが必要だと考えられているのである。
ろうの子どもたちに一度も聞いたことのない音を発音(発語)させ、
相手の話を唇の形から読み取らせる(読話)という、
気の遠くなるような方法で、音声言語を習得させる試みが長く続いた。
この発語と読話を用いたコミュニケーションを「口話」といい、
その習得に最大の価値をおく教育理念を「口話主義(oralism)」というが、
この口話主義のもとで、手話は弾圧され続けたのである。



現在、ろう者が熱い感心をよせているのが、
北米の一部や北欧各国で採用されているバイリンガル・アプローチである。
これは、ろうの子どもたちが自然に習得できる言語は手話であり、まず手話を習得する機会を与え、
それを基盤に、書きことばや話しことば、学力を身につけさせようというものである。
これまでのような「初めに音声言語ありき」という固定観念を打破し、
「学力の遅れを解消するためにも、より徹底的な口話教育を」とする多くの教育者が陥っている悪循環を
断ち切ろうとするものであると同時に、
もう一度、ろう者の教育をろう者自身の手に取り戻そうとするものでもある。


(「D PRO」というグループの主張)シスコムは、2つの言語を同時に話そうとする試みであるが、
同時に2つの言語を話すことは所詮無理なことであり、
日本語か手話かのどちらか(あるいはその両方)が中途半端になる。
とりわけ、日本語の音声が聞こえないろう者にとっては、
きわめて不完全なコミュニケーション手段だと言わざるを得ない。
それは最低限の用件の伝達や、簡単なあいさつには有効であっても、
長時間の講演や複雑な議論には不向きである。
相手の話を唇の動きから読み取る読話に比べれば、その困難性ははるかに軽減されるが、
解読に骨の折れる、非効率な手段であることに変わりはない。


ろう者自身も、自分たちの使っている手話が一人前の言語であるとは考えていなかった。
当時の手話の指導者たちにも、「手話はろう者のコミュニケーション手段のひとつ」程度の認識しかなく、
それが言語であって、手話教育とはつまり「語学教育」であるという認識は、まったくなかったといってよい。
手話に音韻構造があり、独自の文法体系と語彙体系があるとは思いもよらず、
手話を教えることは、単語を教えることだと当たり前のように考えられていたのである。


シスコムを学んだ学習者がその後遭遇する事態は、
外国語の学習で単語だけを学んだ人のそれと何ら変わりはない。
学習者は、ろう者の話がまったく理解できないし、自分のいうことをろう者にはほとんど理解してもらえない。


しかし、シムコムの存在そのものを否定しているわけではない。
中途失聴者・難聴者にとって、日本手話は外国語と同じであり、
その習得は容易ではない。習得の容易なシムコムの簡便さを超える程度にまで、
日本手話を使いこなす力が身につくことは稀だ。


しかし、中途失聴者や難聴者にとって、それが最善のコミュニケーション手段であろうと、
シムコムが”不完全”なコミュニケーション手段であることには変わりがない。
シムコムは日本語の単語に対応したジェスチャーの集合にすぎず、
読話の補助手段になる程度で、それ自体、言語として構造を備えていない。
コミュニケーション手段としての経済性も低く、話し手にも聞き手にも、
大きな負担がかかる手段である。

この宣言によれば、人種差別には「隔離・排除」と「同化」の二種類があるという。
初期のろう教育では「隔離・排除」と手話教育がセットで行われ、
その後「同化」政策(健常者との同化)に転換され、口話が重視された。
社会福祉の概念であるノーマライゼーションもこの「同化」と同義語化されがちとのこと。


この宣言が記された1995年から18年経過したけれども、
口話主義か手話主義かの葛藤は大きな進展が見られないように感じる。


ETV特集でも主張されていた
口話主義に徹するあまり誰とも心からの豊かなコミュニケーションができない状態に
陥ってしまうことはとても不幸なことだ。


一方では、無理をしてでも日本語を学び、口話スキルを向上させることは、
日本語の読み書きの能力を身につけるためにも必須であり、
結果的に本人の所得を上げること、社会参加することにつながるという意見の方も多くいるよう。


どちらも充分にできればよいのだが、そこまで万能にはできない。


また一方で、ここで「ろう文化」と述べられている文化は、
あくまで日本手話を使うことのできるろう者に限定されており、
そうでないろう者「日本語対応手話」しか話せない人々や、
そもそも手話を使えないろう者は、ろう文化から排除されてしまう。
という問題点もウィキペディアの「ろう文化」では指摘されている。


人工内耳の問題(ろう文化を否定すると捉える人もいる)、
家族とのコミュニケーションの問題(多くのろう者は家族が聴者の場合が多い)
など、どちらが正しいと一概に言えない問題がいろいろある。


多くの聴覚障害者あるいはその両親は、どれを選択するのかを迫られ、
その選択がその人の一生を左右する問題となる。
冒頭に立ち戻って「マイノリティの権利」を保護するということの複雑さ、
困難さを、この一問題だけを見ても感じる。
軽々しく「自分もマイノリティの権利を守るに共感します。」とは言えない。