モノとして見ること

川上未映子さんが谷崎潤一郎賞を受賞」という記事を読んで
翌日(おととい)、その受賞短篇集「愛とか夢とか]を駅の本屋で購入する。
特に「祝 受賞!」というポップがあるわけでもなく、第一刷が本棚に収まっていた。
頭から順番に「アイスクリーム熱」「愛とか夢とか」「いちご畑が永遠に続いていくのだから」
「日曜日はどこへ」「三月の毛糸」とちょうど半分くらいまで読み進める。


小説はあまり読まない。
読書に特にエンターテインメントを期待しているわけではない。
彼女の小説の場合は、独特の言い回し、言うなれば思考回路に私と似たようなものを感じ、
できるなら、このような空気感の中、生活していたいという思いから読む。
いうなれば、現実逃避から読む。



東北の震災の直後に書かれたものが多いからか、
どの篇の登場人物も、停滞していて、
周囲の人々との距離感や日常生活にぼんやりとした生きづらさを感じている。
しかし登場人物は仕事のことや世界のことなどで思い悩まない。
そんなことは、どうにでもなる(あるいはどうにでもなれ)と考えているし、
そこでの出世のようなものをまるで望んではいない。


ある女性が夫に、さっき見た夢の話をしている。

「そこでは三月ですら、毛糸なの」しばらくして彼女が言った。
「三月?」と僕はききかえした。
「そう。三月が」
「三月が毛糸って?」
「毛糸なのよ」と彼女は言った。
「その世界では、三月までもが毛糸でできあがっているのよ」
「よくわからないな」と僕はしばらくあいだをおいてから言った。
「なにがわからないの」と彼女が言った。
「本とか、鞄が毛糸でできてるっていうんならわかるけど、
三月は物じゃないだろう。三月は時間をそう呼んでいるだけのもので、
区切りが毛糸でできあがってるって、どういうことなの」
彼女は何を言っているのかさっぱり理解できないというような目で僕を見た。
「だから、その世界では三月までもが毛糸でできあがっているって言ってるのよ」
「三月が毛糸ってどういうことだよ」と僕は言った。
「だから、三月が毛糸でできあがってるって、そう言ってるのよ」
(81ページ「三月の毛糸」)

この部分だけ取り出しても、全体の空気感は、うまく伝わらないのだけれども、
日常の人間どうしの距離感って、多くはこんな感じなのかもしれないと思った。




先日、宮台真司さんの「愛のキャラバン」という本をKindleで購入した。
その中で「物格化」という言葉が重要なキーワードとして用いられていた。
「物格化」とは「人格化」(人格として相互承認しあう状態)と逆の状態。
相手を、自分自身の何かの目的を満たすためのモノとしてしか見ていない状態のこと。
人は当然、自分が「物格化」されて扱われているとわかると傷付く。
逆に人格として相互承認しあい尊重されているとわかると幸福に感じる。


しかし、これを意識し始めると、
その人を一人の人格としてしっかりと扱うことができなかった。という後悔は日々キリがなく、
また、こちらがそうしようとしても、相手がこちらを「物格化」して見ている場合は、
(一部コンビニの店員など)「はぁ?」「キモい」という反応になる可能性も高い。


震災という危機的状況は、一時的に周辺の他者を
「物格化」状態から「人格化」状態へと変えたけれど、
すぐに「物格化」状態に戻ってしまった気がする。


毎日見ているNHK朝の連続テレビ小説あまちゃん」も、
明日、震災の2011.3.11 14:46が描かれる。

愛の夢とか

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宮台真司・愛のキャラバン――恋愛砂漠を生き延びるための、たったひとつの方法

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