建築と生と死

堀部安嗣さんの建築の特集が組まれている雑誌を買う。以下引用

・・・建築は死者にも、死者を思う人にも寄り添うことができるということを改めて考えさせられた。
死者を思うことで、あるいは死を身近に感じることで人は「生」をより感じることができる。
その生と死の出会いを建築が担い、繋げていくことができるのだ。

今、日本に「生」を感じないのは、実は家や風景や町の中から「死」の気配と匂いが消えたから
なのではないだろうか。仏壇は行き場所を失い、葬式は家の外で簡易に行われ、
老人や草花や虫といった命の儚い存在の居場所は町の中から消え、街や建築が闇を嫌い、
異常なまでにフラットで潔癖になってしまった。
死の気配を排除した世界は空虚で奥行がなく、かえって不気味であることに気付く時がきている。

もう一度人の生と死を繋ぐことのできる建築の力を信じて、
人が人らしくあることのできる「生」の場所を開いていきたいと思う。
(ja2013SUMMER 堀部安嗣 135頁「人に寄り添うかたち」)

JA NO.90 堀部安嗣

JA NO.90 堀部安嗣


堀部安嗣さんの講演を聞いたのは、
2008年11月5日(その日のメモは以前のブログにも記載している)
堀部安嗣氏の講演会メモ - 心象図録
少なくとも、それ以前から彼の作品が好きで、
その作品を生み出している彼の発想が好きである。


この本の中で内藤廣さんが長い彼の評を寄せているが、
彼もまた死のイメージについて何度も言及しているのを、
先日、買った本で読んだばかりであった。

内藤廣の頭と手

内藤廣の頭と手

これらは私自身も「死のイメージ」にずっと興味を持ち続けていることを改めて思い起こさせた。
たとえば”「ここで死にたい」”と思える家というテーマはあまり発想しないけど、
とても理想的に思える。


おくりびと」が、昨日BSプレミアムで放送されていたので見た。
以前、レンタルしたけれども忙しい時期と重なり結局見ずに返してしまった
アーティスティックな手法ではなくオーソドックスにまとまっている。
そのあと、ETV特集「スーパー能 〜650年目の革新〜」を見る。
(能も、亡くなった人と残された思いが美しい形で表現されている。)
作者の梅原さん自身もいつも死を言及される人なので、このドキュメント自体が能のよう。



昨日、パキスタン南西部クエッタでイスラム過激派組織が通学バスを狙った爆弾テロがあり、
乗客の女子大生14人と、怪我をした女子大生が運ばれた病院のスタッフら11人が
殺されたというニュースを見る。


このようなニュースを見ると、
私がインスピレーションソースのように扱おうとしていた
「死」に対しての態度は軽率なもののような気もしてくる。


そういった意味で、冒頭の引用にある
「人の生と死を繋ぐことのできる建築の力」というものを
私はまだ、信じきれていない。
が、それができなかったら建築はとてもつまらないものだとも思う。