歌人における「何か」・「前提となる感覚」

このブログを始める前に2008年友人に送ったメールを改めて読み返し、
すっかり忘れていたその内容を改めて考える。


それは面白いエッセイも書かれる歌人穂村弘氏の
真面目な詩歌論「短歌の友人」に記載されている内容。

結局、歌は歌人にしか作り得ない。
歌人でない人の歌は、
「何かがわかっていない」
「前提となる感覚が欠けている」


歌人はその「何か」や「前提となる感覚」を
表現したいために歌を作っているに過ぎない。



「短歌にも色々なものがある」と思ってしまうのは、
「ひとつのもの(「何か」や「前提となるもの」)が
かたちを変える」際のバリエーションの豊かさに幻惑された結果だと思う


・・・・

「多くの歌人は、少なくとも近代以降の歌の〈読み〉に際して、
その作者がどんな体感に基づいて何をやろうとしていたのか、
ということをある程度自分の中で復元できるはずである。
作品がその程度成功しているか、という判断は、
その復元感覚の上に成立しているのだ」

短歌の友人

短歌の友人

これは、歌(短歌)に限ったことではなく、
あらゆるプロの世界に言えることなのだと思う。
プロ野球、芸人、歌手などでも)


歌人はその「何か」や「前提となる感覚」を表現したいために歌を作っているに過ぎない。』
という言葉は完結で潔(いさぎよ)い。
これは建築家の建築にも言いうることなのだと思うが、そのような感覚を維持するストイックさを忘れていた。
それは、日々の雑務に、あるいは設備や法制度という実利的な部分にエネルギーを削がれていたという理由もあるが、
「「自意識の問題」と「社会の問題」を混同するな、「実存」と「社会」を区別せよ(宮台真司)」のような、
建築は個人的な何かを表現する媒体として存在させるべきものではない。という考えにも共感する部分があり、
結局どっちつかず、どっちにもならずになってしまっていた。
私同様、どっちつかずのもの(つまりは前提となる感覚が欠けている建築家風建築)が街にはあふれている。


建築をやりたいと思ったスタート地点は、穂村氏の歌への考えに近いものだった。
改めて今、そのことを反芻することが、セルフブランディングになるかも・・と思ったりする。


さらにイメージを膨らませば、
「何か」「前提となる感覚」は、分野分野でわかれるものではなく、
建築で表現できる「何か」を映画で表現することも可能なのだと思う。


私が、関心を持っている色々なことも、共通する「何か」に惹かれたからだと思う。
その共通する「何か」をもっと意識的に収集し、創造したい。
(7つの習慣でいわれる影響の輪の中に取り込みたい)


その「何か」とは何なのかを考えてみたとき、
梅原猛さんが言われるところの「タナトス的なもの」という部分にいつも落ち着いてしまう。
ポジティブではなく、アクティブではなく、強くなく、明るくなく、熱くなく・・
それでいて普遍的で、美しいもの。というような結局は「何か」としか言い表せないもの。


課題は、
それらにしても社会に発信する限りには多くの人々との共同作業が必要だということ
そして、その闇的な関心の中で自身の精神も病んでしまわないかということ