障害学と均質化

ETVで放送された「グラン・ジュテ:佐々木亜希子(活動弁士)」を見る。
視覚障害者にも映画を楽しんでもらうため、映画に副音声を吹き込む仕事をされている。
彼女のグラン・ジュテ(跳躍)の瞬間は、
ただただ映像の内容を実況中継していた時期、その実況を「逆に邪魔」と言われたことだったという。
彼女はそこで「見えない世界なりの豊かな文化がある」ということを知り、
その文化に則した副音声を考え始める。


これは、以前記したETV特集「手の言葉で生きる」でも触れられていた
2008/9/23の日記
「障害者には健常者と同じ形式の社会、娯楽、文化を営ませてやらねばならない。
という健常者の努力が、受け手の障害者のニーズとミスマッチを起こす。」という問題である。


ETV特集「手の言葉で生きる」では、
「障害者のニーズを突き詰めていくと、より障害者の楽しめる文化・社会となっていくが、
今度は障害者と健常者で乖離が生じる。
(健常者の言語に則した手話と、聴覚障害者の感情がより伝えやすい手話とが分裂することで、
聴覚障害者が健常者とコミュニケーションを取ることがますます困難になっていく)という部分まで触れられていたが、
今回はそこまでの掘り下げはない。視覚の場合は、いくらか事情が異なるのだろう。
また、私自身も「手の言葉で生きる」を見たあと視覚障害者の場合はどうかとまでは思い至らなかった。



今年始め、書店で谷川俊太郎さんの帯の言葉に惹かれ購入した本を思い出し、棚から出してみる。

「言葉は私たちの目や耳にではなく、
魂にこそ従属しているものだと、
福島さんは文字通り身をもって立証する。」

という帯が付けられていた「盲ろう者として生きて」という本。


福島智さんはヘレン・ケラーと同じ「盲ろう」の障害を持ちながら、
東京大学の教授で障害学を研究し、教えられている。
指点字という指を重ねてタイプを打つようにすることでコミュニケーションが成立している。
そして、この本はそのような無音の闇の中で記された500ページを超える膨大な記述である。
彼が光と音を失うまでの過程・葛藤、絶望、そして克服が分析されている。
(下にも引用するとおりここでいう「克服」は治ることを意味していない)


以下、少し引用する。

「障害学」とはなにか?
それは障害を分析の切り口とする思想的営為であり、知の運動である。
もう少し具体的に言えば、障害や障害者を把握する際、
たとえば、治療や訓練による快復を至上命題とする従来の医療や
リハビリテーション学などの視点とは異なる、
新たな視点で障害に光を当てる学問である。
・・・

障害は人工的な概念である。
それはある時代のある社会が、ある目的をもって便宜上規定する概念である。

・・・


私は「触覚言語」を使っているわけであり、
これは「触れる文化」を生きているのだとも言える。
日本の支配的文化は他人に触れるのを避ける「触れあいのない文化」だ。
(だから、私は通訳者が男女いずれの場合でも、しばしば周囲からおかしな誤解を受ける。)
このように「文化」の視点で障害を分析することもできる。

そして、この「文化」は「能力」というテーマにも繋がっていく。
私の知人の聴覚障害者の中には、スキューバダイビングをしながら、
海中で手話を使って友人と自由に話す人がいる。
「普通の人」にはまねのできない技だ。こうした例を考えると、
「能力」とはそもそもなにか?という大きな問いにぶつかる。
社会は、そしてそれを構成する人々は、ある個人をどのように取り扱うのか?
「文化」とはなにか?「能力」とはなんだろうか?こうした問いに障害学は、
これまでになかった新たな光を照射する。


すなわち障害学とは、障害の有無を超えて、
人と社会のありかたを新たな視点で研究する学問なのである。

(448ページ 「東京大学編『アカデミック・グルーヴ』2008年に初出)

「触れる文化」とは一体どのようなものなのか、私には想像がつかない。
「触れる文化」と通訳者を介さずにコミュニケーションをとることは、
今の私にはできない。


ただ、福島さんが言われるように、これは障害者との接し方の問題ではなく、
みんなおんなじと見做し(あるいはみんなおんなじになれるよう調整する)、
欲望も能力も均質化しようとするネオリベラリズムグローバル化
対抗するたぐいの問題だと思った。


ただ「そういった文化もある」といって、容認しつつも、傍観しているばかりでは、
福島さんは、誰ともコミュニケーションを取れなくなってしまう。