素人参加の産業

藤森照信さんの講演会に出掛けた。

その中で、補足的に付け加えられた下記の言葉が印象的であった。

建築は近代産業の中で、素人が参加できる唯一のものなんです。
・誰でも何かやることがあり
・何のために作っているのかがわかる。
このことは文明的にもすごく重要な意味を持っている。
(テレビや自動車の工場に素人は参加できない)

対称的にこのような発言もされる。

建築家の考えるコミュニティに興味はない。
建築批評という仕事柄、多くの建築家の発言・発表を研究してきたけれども、
ほとんどがうまくいっていないし、あまり価値はない。
また、半分くらいの建築家は社会性がない。


藤森さんが、縄文建築団などの活動を通し素人を建築行為に参加させるとともに、
素人っぽさを表現様式として重視されているのは、彼の特徴の紹介として毎度のことであるが、
社会という視点からこのことを意識すると、あらためてとても重要なことのように思えた。


現在の社会は分業化・効率化され、労働者をあまり必要としない社会になりつつあり、
かつ、その労働者は専門家、高度化されている。
結果的に、「みんなが必要とされる社会」から、どんどん遠のいている。
「高齢者も障害者も子供も参加することが可能である行為としての建築」というイメージは、
確かに魅力的であり、現代の技術とリーダーがいれば、スカイツリーは無理でも、
小ホール程度であれば素人参加の建築で作れるのではないかと思う。
またそうして、作られた建築群が社会の仕組みを再構成していく気もする。
(そうして作れる範囲での建築・都市・社会にダウンサイジングしていく・・)


某住宅メーカーは、「なぜ○○は、家を工場で作るのか?」と、
その会社の作る住宅の精度、品質管理をTVCMでアピールしているが、
建築という営みの大きな要素を見落としていると思われた。


また、そういった視点から建築を捉えてみると、
一級建築士・設計・監理」というところにしがみつこうとしている自分にも、
不自然さを感じるし、逆に、どう転んでも建築業でいることは、悪くはないと思わせられた。


妄想は広がるばかりであるが、そう上手くは行かない現実が、
現前には大きな壁として存在し、藤森さんもそのことにはある程度自覚的でもある。