街のヘソ

2ヶ月ぶりに祖母宅に行き、
隣室から穴をあけてTVアンテナの配線を寝室にひきこみ、
寝ながらテレビを見れるようにする。


88歳の祖母の寝室が2階から、
安全を考え1階へ移ってもう4ヶ月くらい経過していた。


祖母は「寿司友でお寿司でも頼もか」と何度も聞いたが、
「寿司友」はもう3,4年前に店をたたんでいて、
そのあと新しくできたお店もお昼の営業を辞めてしまっている。
私はコンビニでカップ麺といなり寿司を買ってきて
祖母は冷蔵庫の残りを食べた。


午後、仕事用のズボンを買いに行き、
裾直しの待ち時間、隣接する図書館で建築雑誌をチェックする。
今月はGAが秀逸。作品紹介は少なめだけれども、
「今、エンジニアが考えていること」と、今さらながら「堀口捨己」について長い特集が
掲載されていたり。まさに建築の雑誌になっている。
GA JAPAN 117


恒例のように集合住宅特集を組んでいる新建築とは対照的だ。


おととい放送された
TBSラジオ デイキャッチャーズ・ボイス
宮台真司さんのポッドキャストを聞く。
http://podcast.tbsradio.jp/dc/files/miyadai20120803.mp3←いきなり音が出ます)
先週、開催された小林武史中沢新一宮台真司の鼎談
Salyu小山田圭吾のライブ付)に関連した内容。
街づくりについて触れられている箇所があったので以下引用する。

最近の傾向として「街づくりは人々のニーズに応じてはいけない。」と言われている。
人々のニーズに応じると、「安心・安全・便利・快適・・・だけども人が不幸になる」
というデタラメな街づくりになる。
それは人間の人生の長さ・スパン、人々がモノを見るときのスコープが限られていて、
「本当は何が人々を幸せにしているのか」ということにまで考えが及ばないからである。


人を超えたもの 例えば街なら街を大きな主体と考えて、
僕らはそこに寄生している存在なのだと考える発想が必要。


大きな一本の木がまちに昔からあるとして、
ウロにボウフラがわく、落ち葉の掃除が大変・・などの理由でその木を切ることが、
ヘソのゴマを取る行為なのか、ヘソを取る行為なのかを考えることが、
街づくりとしてできにくい状態が続いている。
そういったものの一つ一つがその街に住む意味の根幹になっているかもしれないのに。


もっと社会を超えて、世界に感受性を広げる必要がある。
社会の外に世界が広がっているという認識が持てるかどうかが重要である。

(一部、言い回しを変えています)

上記3人の一人である中沢新一さんの新刊「野生の科学」が店頭に並んでいたので先日購入する。
最新の数学だとか難しい内容も含まれているのでスッと理解できるわけではないが、
言わんとされていることはわかる。(2004年のカイエ・ソバージュ以降ほとんど変わっていないので)
そして、その言わんとされていることと、上の引用とはよく似ている。


私自身の関心も、ずっとそのあたりをウロウロしているが、よく似たものを見つけ眺めるばかりで、
生活の大半の時間はその方向と逆のベクトルを向いている気がする。


お金がその逆ベクトルの方向で回っているからという部分も大きいが、
社会の外に世界があるという認識は一つの流れに抗(あらが)う力になると思った。

野生の科学

野生の科学