像との距離

「私にとっては、この仏の尊顔はどうしても巨大な工芸品にしか見えてこない。
宗教的な感情が沸き上がってこない。ありがたい気持ちにさせてくれないのだ。
それはこの大仏の再建を指示した者も、実際に製作に携わった職人にも、
天平の時のような宗教的使命感というものが希薄であったからなのだろう。」
(「苔のむすまで」91ページ)

東大寺の大仏をこう評した写真家:杉本博司 
文章の前後には、天平時代の大仏はもっと素晴らしかったに違いないという彼の確信が記されている。
宗教的使命感が濃ければよいものが生まれるという単純な因果関係には同調しかねるが、
現在の奈良の大仏が工芸品的だという感想は同感。



昨日から奈良国立博物館で開催されている「頼朝と重源」を鑑賞する。


今回の展示における名品は、タイトルにもある2人の尊像である。

国宝「源頼朝像」

国宝「重源上人坐像」
どちらも、年に数度ご開帳される程度のめったに見れない品である。


私個人としては「頼朝像」を見るのは2度目、「重源像」を見るのは3度目であるが、
何度見ても(上の杉本氏の言葉をそのまま反転させれば)
宗教的な感情が沸き上がってくる・ありがたい気持ちにさせてくれる像である。


同じく国宝の「僧形八幡神坐像」も展示されている。

こちらも同時代、東大寺復興に際して制作されたもので、
重源上人坐像と同じ、慶派仏師により非常に丁寧に作られた像。
長く東大寺の鎮守である手向山八幡宮の御神体として秘して祀られていたため、
状態はとてもよく、彩色もほぼ当時のまま残っている。
とても800年前のものとは思えない。
しかし、なぜかこちらは工芸品的にしか感じれない。
なぜなのかは、うまく言葉では説明できない。



 初めて一人で奈良国立博物館を訪れたのは14年前であるが、
そのころよりも、ずっと展示の仕方が魅力的になった。


仏像をガラスケースに入れて展示することはほとんどなくなったし、
今回の「頼朝像」も、いきなりは見せず、
近寄って初めて現れるというシークエンスを意識した展示配置になっている。
照明計画も優れている。


しかし、
宗教的な感情が沸き上がってくる・ありがたい気持ちにさせてくれる
という感覚は、まだ意識できていないように思う。
美しく躍動的に見せるということに終始している。


宗教的な感情が沸き上がってくる・ありがたい気持ちになった際に、
日本人としては、手を合わせるという動作を取りたくなるが、
この展示空間ではそうはできない。
(そうするのは勝手であるが、「なんだこの人」と思われてしまう)


先日、朝の太陽に手を合わせている老婦人をみかけ、
「こんな素朴な信仰を持った人が、まだいるのか」と思ったが、
信仰というよりも自然なふるまいのように思える。


重源上人坐像を前回見たのは、俊乗堂という東大寺の一つのお堂の中であった。
仏像を安置するお堂は、本殿があって外から拝する形式から、
拝殿が生まれ、本殿と拝殿がくっついてと進化を遂げるが、
博物館で鑑賞する場合は、その距離感がなさすぎて拝殿的な空間が成立していないのだと思う。
(あるいは拝殿の中に本殿の像を持ってきてしまったような違和感)


そういう意味で言えば、「僧形八幡神坐像」が、
ありがたい気持ちにさせないのは、眼で見てしまっているからなのかもしれない。


桂米朝の落語「稲荷俥」には、お稲荷様の使い(眷属)の
「わしの本体を見たら、眼がつぶれるぞ」というセリフがあるが、
姿はあれども見せてはならない。というのが正しい距離感なのかもしれない。

苔のむすまで

苔のむすまで