シェアとアートの関係

5月にDVDが発売された「ハーブ&ドロシー」を見る。
ニューヨークに住むハーブ(元郵便局員)ドロシー(元図書館司書)夫妻が、
若いときから集めてきた膨大な現代美術のコレクションを
ナショナルギャラリーに寄贈するまでのドキュメンタリー映画。


映画『ハーブアンドドロシー ふたりからの贈りもの』公式サイト


彼らの収集には、
・ハーブの月給の範囲で買えるもの
・自分たちのアパートに入るもの
・本当に気に入ったもの
・一度買ったものは売らない
というこだわりがあり、そのルールにのっとりアーティストに直接会い、直接買う
を続け、そのコレクション数は4000点以上に達した。
(通常は画商を介して売買がなされるので、美術界においては例外的であるらしい)
コレクションには、後に世界的な評価を受けることになったアーティストの作品も多く、
市場価格では数億を超える価値がある一大コレクションとなった。


しかし、大半の作品はアパートの中でダンボールに梱包されたままで、
「なぜ飾らないの?」という問いに対して、
ハーブは「持っているだけで幸せなんだよ」と答えている。



「持たないこと」「シェアすること」の美徳が説かれる現代にあって、
彼のただただ集め続けるという行為は時代の流れに逆らっている。
しかし所有するということの意味を、改めて考えさせられもする。


彼は美術関係者の間では、有名な存在であったが、
郵便局員としての仕事仲間(おそらくご近所にも)、
自身が現代美術に興味を持っていることすら話さなかったという。
その部分でも価値観をシェアしたいという部分での割り切りが特異である。
定年まで淡々と働き、その働きとはかけ離れたところにその収入のすべてを捧げた。
(生活費はドロシーの給料でまかなわれた。)


シェアには、価値観や思想のような頭の中のものと
空間や物といった頭の外のものの2つのシェアがあると思われる。



シェアの特集が組まれた昨年7月の博報堂の雑誌「広告」に、
アートとシェアについての考察が掲載されている。
(「イバン・イリイチから考えるこれからの文化をシェアする形:岩渕潤子」(40〜45ページ))

広告 2011年 07月号 [雑誌]

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ユーザーがクリエイションのプロセスに参加する。
もしくは、参加していると感じさせるようにプロジェクトがデザインされる事例が増えています。
ファインアートの分野では、個が細分化されていく過程で、
「一個人であるアーティストにしかできない行為こそが芸術だ」とおもわれる傾向が強くありました。
ところが、最近ではそうではない、いうなればソーシャルな
鑑賞者や視聴者、コレクターがかかわることで初めて成立するアート作品も登場してきています。


・・・
個が細分化していった時代には、アーティストが自分の思うままに作品を作り、
でき上がった作品をコレクターがたまたま気に入れば、高いお金を払って購入したわけですが、
これだと、制作のプロセスにおいて、
アーティストと買い手の間のコミュニケーションが生まれる余地はありません。
・・・

ところが、2000年前後から、アーティストの側から、受け手の声を聞こうとする
姿勢が感じられる作品が増えてきました。
・・・

絶対君主制の時代、アーティストは施主である君主には逆らえない立場にありましたが、
今は鑑賞者とアーティストが対等な関係にあるため、
対話を通じて価値観を共有することができるのだと思います。


・・・
90年代のリレーショナルアートは、
アーティストが発案したことに巻き込まれるパフォーマンス的な要素がありましたが、
これからは、受け手(発注者)がより意識的にプロセスに関わる事例が増えていくのではないでしょうか
・・・

現在はメッセージ性や普遍性へと受け手の関心が向かったことから、
創造のプロセスにおいてアーティストと鑑賞者の対話が重視されるようになってきているように感じます。
日本の全国各地で行われている芸術祭でも見られることですが、その会場のための
サイト・スペシフィックな作品を創る場合、(注:サイトスペシフィック・アート - Wikipedia
アーティストは表現に関わる技能を提供するものの、作品のコンセプトは、
そこにいる人たちとの合議によって決まっていく場合がある。
作品として完結しているかどうかや美的な完成度よりも、
価値観の共有が重視されるわけです。
・・・

個人住宅の発注を考えるとわかりやすいですが、
理想のマイホームについて建築家とあれこれ話をするのは、
施主にとって楽しいはずですよね?
建築家と施主との対話は、双方の価値観の共有を図るためのプロセスであって、
民主主義の時代、アーティストとしての建築家との対等な関係があってこそ、
初めて成立する「シェア」なのではないでしょうか。

岩渕氏は、この新しく見られるアートの流れを
「シェアード・エクスペリエンス(体験の共有)としてのアート」と呼んでいる。


価値観のシェア、空間・物質のシェアの2つのシェアとは別に、
体験のシェアという概念がアートに加わった。と。


物質としてのシェアは、アート作品は、私立であれ公立であれ
安い入場料を払えば見れる(シェアできる)のが、当たり前になっているし、
それにともなって価値観もある程度シェア可能である。
対して体験のシェアは、新しい視点であるとは思うが、
私個人としては、いまひとつ好きになれない。



むしろ、アートとシェアは対極にあるべきもので、
シェアというものがコミュニケーションに親和性がある行為だとするならば、
アートはコミュニケーションが成立しない、それでも何かを発信したいという矛盾した状態、
シェアできなさを表現するものこそがアートではないのかと思ったりもする。
「一個人であるアーティストにしかできない行為こそが芸術だ」と言いたいわけではない、
複数の人数が共同してアートを作ることは可能だと思う。
「作品として完結しているかどうかや美的な完成度よりも価値観の共有が重視されるわけです。」
と記されているが、価値観の共有よりもそれがアートであるかどうかが当然重視されるべきだと思う。


そのような意味で、ハーブ&ドロシーのコレクションが、
ナショナルギャラリーに収蔵されシェアされるということは、
アートとしての一つの要素を失うことのように私には思えた。


(*後半部分の内容を、2012/7/8加筆修正しました。)