Peter Zumthorのアウラ

先日出版されたピーター・ズントー(ペーター・ツムトア)の本を読んだ。
思いのほか華奢(きゃしゃ)な本で、本書のために書き下ろされた本ではなく、
20年近くの彼の言葉を集めた本である。
翻訳が美しく、装丁も美しい。


偏執的なまでの彼の建築行為へのこだわり、
そして彼の理想としない建築への嫌悪感は、
作品をもって裏付けられていて、それらの作品を作りえる彼だからこそ、
このような格言的なことが言いえるのだなぁと思いつつも、
そのように大きく「今(ポストモダン以降の現代)」を否定してしまうことは、
逆に生きにくさを生んでいるだろうと思ったりもする。
(陳腐なもの、あるいはカワイイ的なものも適度に許容するゆるさを私としては欲しい)
もちろん、美しい生き方だとは思う。


以下、しるしを付けたところを引用

建築には建築の存在領域がある。建築は人間の生と とりわけ身体的に結ばれている。
思うに、建築はまずもってメッセージでもなければサインでもないのだ。
そこで営まれる生を包む殻であり、背景である。(11ページ)

いったんメッセージを理解してしまえば、好奇心は消えてしまう。(11ページ)


自身のなかに安らっているような物や建物をじっと眺めていると、
私たちの知覚もふしぎに穏やかに和らいでくる。
それはメッセージを押しつけてこない。
そこにある、ただそれだけだ。私たちの知覚は鎮まり、先入観は解かれ、
無欲になっていく。記号や象徴を超え、開かれ、無になる。(16ページ)


面白い形の組み合わせだとか、独創性だとかはなんの関係もない。(20ページ)


建築は、その本質とは関わりないもののための乗り物でもなければ象徴でもない
本質的でないものが讃えられる社会にあって、建築はおのれの領域で抵抗することができる。
形や意味の摩耗に抗して、おのれの言葉を語りうるはずである。(27ページ)


美しさは記号やメッセージに占められていない、
自然な、自然に育った物のなかに宿る。(29ページ)


なにか特別な形にしようと贅と意匠を凝らした建物にひんぱんに遭遇し、そのたびに私は気分が悪くなるのだ。
こういうものを造った建築家はなるほどその場にはいないけれども、
その建物のあらゆるディテールから顔を出して、ひっきりなしにしゃべりかけてくる。
そしてこちらがたちまちうんざりしてしまうような、おなじことばかりをくり返す。
すぐれた建築は人間を受け入れ、人間に体験させ、人間を住まわせるものであって、
長広舌を押しつけるものではない。(35ページ)


それぞれの場所、一日の流れ、私自身の行動や心身の状態にぴったりあった空間的状況を
さりげなく、ごく自然に提供してくれる建物。
空間を与え、そこに住まわせてくれ、人が必要とすることを察知して、
大げさぶらずにかなえてくれる建築・・(45ページ)


建設を予定されている場所で、五年後、あるいは五十年後にこの建物が放つアウラのことを思い、
またこの建物となんらかのかたちで出会う人々にとっては建てられたものだけが肝心であることを思えば、
発注者の要望に逆らうのはそれほど難しいことではない。(51ページ)


伝統的農業には人間を養ってくれるものに対するいたわりがある。(104ページ)


私は場所と素材と建造物の関わりに人一倍敏感だ。(105ページ)


偏執的だと書きはしたけれども、
大学1年生のときの住宅の課題のイメージソースの提出の時に、
彼のグガルン・ハウス(Gugalun House)をコピーして貼り付けてから、
ずっと理想とする建築家であり、建築作品群である。


以前にも、引用したが、(アウラを宿す - 心象図録
彼がよく用いる「アウラが宿る」という言葉。
ヴァルター・ベンヤミンの定義によれば、アウラは自然(あるいは神)から一回だけ真似したものにだけ宿り、
真似したものを真似しても、劣化コピーができるばかりで、そこにはもうアウラは宿らない。


現代の建築は、劣化コピーか、あるいはそもそもオリジナリティばかりを求め、
コピーをする気などないもので溢れているということになるのだろうか。

アウラ」を実現するためには、既成品だとか、設備だとか、否定、妥協、隠蔽しなければならないことが、
山ほどあると感じてしまうが、それは頭だけで考えているからで、実際やってみれば簡単なことなのかもしれない・・
と頭だけで考えてみる。


建築を考える

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