出来事で埋める

昨年秋に公開された映画「東京オアシス」を借りてきて見る。
1月に見た「マザーウォーター」とほぼ同じスタッフ・キャストによる映画(その時の日記
マザーウォーター」は、ひとつの街、その地域の人々のつながりで構成されていたが、
本作では、人々のつながりはほとんどない。
それぞれの人に主人公トウコ(小林聡美)が、ふと出会うという3つの出会いで構成されている。
その出会い方、進み方は、ワキ(多くの場合旅の僧)が、シテ(主人公の霊)に遭遇するという
能楽の形式に似ている。
ふわふわとして始まり、ふわふわとして終わる。
何か結論が導き出されるわけでもない。出来事らしい出来事がない。


そして、また次の出会いに移る。
そして、ふと終わる。


近所の図書館に本を返却に行く。
雑誌コーナー、「新潮5月号」の表紙に大きく
"綿矢りさ「ひらいて」"と記されていて、
ぜひとも今日読みたい。と思うが、図書館で読むには時間が足りないし、
最新刊は借りることができなし、近くの本屋には「新潮」など置いていない。


しかし、その「読みたい」は純粋な「読みたい」ではなく、
「読みました」とアピールすることも念頭に入れた「読みたい」である。
Facebookに書こうとか、ブログに書こうとか意識している。


以前、mixiの笠原社長がインタビューで、

mixiはコミュニケーションサービスを最初から志向している。
(友達との心地のよいつながり)
一方のfacebookは、
・より透明性のある社会を作りたい。
・監視し合うことで、より人々の行動が是正されていくような社会を作りたい
といったものを志向しているらしい。

といった内容のことを述べられていた。
笠原さんは半ばFacebookを牽制する形で言われたのかもしれないけれど、
私はそのFacebookの透明性と行動が是正されていくという要素を肯定的に捉えていた。
そして、今も大筋の部分では肯定的に捉えている。


例えば、私は「綿矢りさの作品がすごく好き」という自分で勝手につけたイメージを守るために、
まだ単行本化されてない新作も読んでいる像も自身に着せなければならないと意識し、
Facebookなど無かった時期には、しなかった読書まで無理してでもしたとする。
これを、偽善や演技ととらえる人もいるかもしれないが、
それは、あとで本物に変わりうる偽りであると思う。
そうして、これらの行為を承認し合えば、確かに社会は変わるのではないか・・と。


しかし、この「東京オアシス」あるいは、能の登場人物を考えると、
出来事のない部分はFacebookなどではなかなか表現できないが確かに存在する。
かつ、それは重要な要素として。と意識させられる。


じかに対面するコミュニケーションにおいても同じで、
「何してたの?」という問いに対して、なかなか説明しにくい時間の過ごし方が本当はあるはずなのに、
それは切り詰めてよいものとして、どんどん出来事で埋めていこうとしているのではないか?と思わせた。


新潮 2012年 05月号 [雑誌]

新潮 2012年 05月号 [雑誌]