スケジュールと対称性

夕方、二週間前と同じように、
二週間前に借りた本を返却するために近くの図書館に行った。


ガルシア・マルケスの「百年の孤独」は本棚に戻っており、
朝、耳にしたル・クレジオの「調書」も
以前ドキュメントを目にしたオルハン・パムクの「雪」もあった。


今まで、そのような海外文学にはまったことなど一度もないのだけれども、
そのようなものにはまる文化的な生活ができればいいのにと
夢想してみる。



試験まで、あと二週間、寸暇も惜しむ時期である。
熟読するつもりはないけれども、
「縄文聖地巡礼坂本龍一中沢新一
「三面記事小説」角田光代
を借りる。


茂木さんのブログに
週刊ポストに掲載した文章が載っている。

・・・・
 満員電車に乗って、毎日「痛勤」する。休みもなかなかとらない。
長期バカンスなど、とんでもない。残業も当たり前。家には、眠りに帰るだけ。
そうやって一生懸命働いても、なかなか生活が楽にならない。
 日本経済の失速が長期化して、
さすがに、多くの人が今までのやり方ではマズイのではないかと感じ始めている。
それでも、日本人はあくまでも従順。
矛盾だらけの社会システムに、黙々と従っている。一体、どういうことだろう。
 大学の授業で、
「君たち、三年の十月から就職活動が始まる日本のシステムは、異常だと思わないか?
 これだけライフスタイルが多様化しているのに、新卒じゃないと、
なかなか就職のチャンスがないのは馬鹿げていると思わないか?」と問いかけても、
多くの学生はぽかんとしている。
どうやら、現在の日本のシステムが、
太陽が東から昇って西に沈むように動かしがたい、宇宙の法則だとでも思っているかのようだ。
 日本人は、どうも、「過剰適応」なのではないかと思う。
・・・
(前後省略 週刊ポスト 2010年7月16日号
脳のトリセツ「ストックホルム症候群」からの脱却 より)


ブレーキとアクセルを同時に踏んでいて、
ブレーキを後ろめたくも思っているけれど、
そのブレーキを踏みたいと感じている感覚は、
甘えなどではなく、そちらの方が正しいのかもしれない。


少なくとも、ブレーキとなるものは、世の中にたくさんあり、
スケジュールにさからってでも、私はそれらを自然と収集し、
そちらへ向かって歩みを進めているのかもしれない。


中沢氏におけるブレーキは「対称性」であり、
私たちがアクセルと感じているものは「非対称性」なのだろう。



■5年ほど前に友人に送ったメールを読み返してみると、
当時はなんども推敲したはずの文が、1年経過後も問題点はないように思えていた文が、
「これでは、伝えたいようには伝わっていないだろう」という
補足が不十分な箇所がいくつも目についた。
今書いている文章もそうなのだろう。


縄文聖地巡礼

縄文聖地巡礼