対象性と言葉

雨がやんだので、自転車で西天満から天満橋を渡って大阪府庁へ行き、
そのまま西へ堺筋本町、本町と抜け四ツ橋筋の向こうの事務所まで書類を届けた。
会社までの帰路に偶然、5年くらい前に二級建築士の製図のテキストをジュンク堂で買って、
そのまま歩いて辿りついたマクドナルドに行き当たる。
卒業してすぐの夏になるがそのころはまだ働かずにいた時期である。
今も今で安定してはいないが、あのころはもっととっかかりがなかった。
何かが大きく進化したり変化したりしたわけではないが、懐かしく感じる。



帰宅時の電車で樫村氏の新書を読む。
第三章「なぜ恒常性が必要か?」

・・
「基本的に世界と自分の間など埋められないのだから無駄なことを考える必要はない」
「死を遠ざける科学と快楽を提供するテクノロジー以外は無駄なお遊びである」
「死を喚起させる精神的苦痛に対しては精神薬があればいい。
何年間も苦痛なカウンセリングを受けるより、気分を変えてくれる薬があれば十分だ」
とする「動物化」肯定論が現在は優勢である。
実際に世界はますますその方向に向かっている。
(133ページ)


文化は人間が言語の世界に入る以前の対象性や十全性を享受させ、
文化と触れるものに喜びや満足、生きていることの実感を与える。
不透明性や留保、想像性、統合性などは幼児期において他者から与えられる対象や、
他者との実感と等価なものを与えてくれる。
(135ページ)

・・例えば宗教は、絶対的な他者についての表象や思考をさまざまな隠喩や、
芸術などによって作り上げてきた。荘厳な教会、寺院、独特の儀礼などは、
日常の世界では処理できない私たちの感情(死や病気や苦しみなど)を
合理的な意味作用を麻痺させる形で慰める装置である。
しかし、科学が進めば儀礼や教義では納得できなくなっている。
(137ページ)

前後の文脈があって力を持つ言葉なので、
この部分だけ切り取っても第三者にはうまく伝わらないと思うが、


133ページについては、私自身も
「自分自身の陰鬱な性格は、
脳内の分泌物質のさじ加減で大きく変わるのではないだろうか。
だとしたら長く保持し、時にはその性質を好ましくも感じたりする性格とは
いったいなにか」と考えていたばかりだった。


135ページについては、中沢新一氏における「対称性」や
「芸術人類学」に通ずる考えであるが、こちらの方は「対象性」である。
文化の役割をあらためて考えさせられるとともに、
文化とそうでないものを分別するものさしにもなりうる気がする。


137ページは、結局はそこに意味があるのであって、
そういうものを起こさしめない宗教建築、宗教儀礼は、
(私たちの科学的知識が邪魔する部分もあるのだが、)
作られたばかりのものであっても形骸化されたものといえるのではないだろうか。

ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書)

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