藤森照信講演「本野精吾とモダニズム」

以下は、2001年9月8日(土)に開催された講演会
「関西のモダニズム建築探検」藤森照信(建築史家・東京大学教授)
午後6時30分〜8時30分 場所:ルナホール(芦屋市民センター)のメモを
手書きの日記に記していたものをデジタル化したものである。(2008/08/24)



委員長:モダニズムとは戦争をはさんだ前後25年のことを言うが、定義付けはむずかしい。モダニズムは過去の建築を否定し破壊する目的でおこったが、現代、今度はモダニズム自身がその危機にさらされている。なぜモダニズムがあいまいかというと、明治に入っての日本が次々と作っていった洋風建築はもはや当時の西洋においては時代遅れのものであった。そうしてその混乱が今も続いている。
藤森:私は今までずっと西洋館の保存をしていたが、そうした歴史調査の流れよりも、破壊生産の方がずっと早く、気がついたら次々と初期のモダニズム建築の破壊が進みつつある。しかしそれをとめることは難しい。「残してください」と頼んでもモダニズムの何がいいかを素人に説明するのは難しい。男の人よりも女の人の方がすぱっとしてる。男の私としては「この建物を建て替えることによって10倍面積が増えるんですよ」といわれたら「そうなんだな」と納得してしまうが、女の人はそれがない(ここでの女の人は保存家か持ち主の方なのかわからなかった)西洋館のよさは、いちいち説明するまでもなくみんなが理解してくれる。建築史家の長谷川尭氏は「モダンは目が滑る」とおっしゃっていた。つまり面白味がないと言うのだ。それにくらべ西洋風建築は「見飽きないし、一点一点見ていられる」と。


安藤忠雄のすごい所はコルビュジェのコンクリートの建築にミースの構成主義コンポジションというものを組み合わせたところにある。これは西洋人も考えなかった。


バロックロココまではコルビジェも評価しているが、問題はそのあとネオバロック・ネオロココと過去のものを18世紀、19世紀に様式化して、どんどん逆戻りしていくことだ。これをコルビジェやグロピウスは徹底的に軽蔑し、この慣習を打ち破ろうとした。そこでまずスタートしたのがアールヌーヴォーです。そのあとデ・ステールやバウハウスと行き着く。そして、ここからがモダニズムであるとする。このように西洋ではある程度順だって確立していったわけであるが、日本はまあアールヌーヴォーもあるにはあった。例えば関西の住友営繕室や武田五一はその草分けだ。しかしここから日本のモダニズムがスタートしたかとしうと、まあ人によって様々ですが、私は違うと思います。武田五一という人はまあ何でもこいの人で、かたっぽですっごいモダンなのをやったと思えば、一方ではすごい本格的な寺のお堂なんかも作っている。それに晩年は法隆寺の修復に尽力されて、法隆寺の屋根の形は彼が決めたといっていいほど熱心でした。つまり彼はあくまで、アールヌーヴォーも西洋建築の一つの手法としてしか見ていなかったわけです。そのあと、日本のモダニズムの第一号は後藤慶二の豊玉監獄から始まります。彼は分離派の表現派でした。しかし彼の弟子たちがガラッとバウハウスへ方向転換するわけです。しかもそれについて何の理由も宣言もなしにですよ。もうこれは裏切りに近いですよね。もちろんそれに反対する人々もいました。それが村野藤吾です。彼はだから生涯表現派として生きたんです。


さてここで本野精吾の話をしましょう。今回の20選の中にも入っているんですが、もし建築家が選んでたら絶対彼など入ってなかったでしょうね。でも、今回は建築史家が選んでくれたみたいで、だから来てもいいかなという気になったんです。
彼は京都工芸繊維大学の教授で「インターナショナル建築会」というのを組織してグロピウスたちの運動を賛成したんです。そして世界の有名建築家に手紙を出しまくるわけです。これが結構返事が返ってきてるんです。でもすべて現存しない、じゃあなぜわかるかというと機関紙に○○から返事がきたと書いてあるのです。まあ、嘘書いたのかもしれませんけど(笑)そして彼らがしたもう一つの功績はブルーノ・タウトを日本に連れてきたということです。彼はナチスを逃れてアメリカへ行こうと思ったんですが、奥さんが正式な妻でなかったので移民法かなんかで入国許可がおりなかった、しかたなく日本に来たのです。ちょうどこの会から来て欲しいという手紙が来てましたから、そしてあの有名な桂離宮との出会いがあるわけですね。彼はあのヴォーリス設計の大丸の社長の家に泊まって、次の日に出かけて、あの感動の涙をこぼすわけです。でも、実際はその場にいた人の話によりますと彼は門の竹やぶの所から涙を流していたというんですね、本体もまだ見る前から。ここでインターナショナル建築会に話を戻しますけど、おこってくるのは「結局、自分たちは何をしたのか」ということなんですよ。彼(本野)は言うことはすごいんだけど、結局何をやってるかはっきりしないんです。


もう一つ、今日お話しようと思っているのは、フランク・ロイド・ライトの山村邸です。まあ今はヨドコウ迎賓館になってますが、旧名で呼びます。これは彼の作品かどうか彼の弟子の作品ではないのか・・と問題があったんですが、今はもうはっきりこれは彼の作品であると証明されています。この作品はもう世界に誇るものであるように思います。彼は日本に三つの作品を残しているんですが、帝国ホテルに代表されるプレイリースタイルという木造の影響を受けたであろうものが彼の特徴なんですよ。ちょっと図に描いてみると(平地に三角屋根煙突付き)下手ですね・・(笑)、こんな図しか書けないからあんな作品ができるんだとよく言われるんですが・・。しかし山村邸は(斜面にそうような家)という感じで、彼のスタイルでもある傾斜屋根と水平がないわけです。しかしこんな感じのものもアメリカにあるんですよ。彼の出身はシカゴでプレーリー(平原)が広がっているんですよ。しかし彼にはくせがありまして、それは施主の奥さんに手を付けるというんで有名だったんです。彼のような人だったらモテるのもわかりますよね。余談ですが帝国ホテルの設計でライトが日本に来たときに彼の弟子になる遠藤新さんがライトに会いに行ったらしいんですよ。そのときライトの服装はあの写真にも残っている黒のコートと白いマフラー。彼は低い声で新さんに向って「ボ〜イ」と言ったらしい。新さんが帝大の制服を着ていったかららしいですけど、これで新さんは一気に「この人はただものではない」ということになるわけですね。そんな風にして、そんな彼に奥さんを寝取られたくないですから、誰からもシカゴでは仕事が来なくなるわけですね。彼に依頼するのは地方の金持ちばかりですから。そしてロサンゼルスで作風が変わるとされているんだけれども、この中間で彼が山村邸の設計をしているんですね。つまり彼の作風を変えたのはこの山村邸なんですよ。彼はこの岩山、六甲の山村邸の下を一つの岩だと、建築用語では岩砂漠とみなしたんです。後で話をきくと六甲山はすべてが岩らしいですね。江戸時代は岩のはげ山だったが明治に入って植林したらしい。そして彼わこの大地とアメリカのロス近郊の大地とを同じようにして設計するのです。(彼は空間に流れを作るということで水平性を重視しました。)そして彼はこのような作品をドイツで図面集として出版しバウハウスやデ・スティールに大きな影響を与えたのです。そして彼らがこれを世界に広める。つまり日本的が世界へ普及していくのです。


ここで本野精吾に話を戻しましょう。彼の建築活動は金持ちも道楽のようなものでした。彼の有名な話として、彼の同級生が話したのですが、京都で学生時代、市電を待つあいだ、彼は何をしたかというといきなりヴァイオリンを弾きだすんですね。それとかダンスを踊り始めたりして、しかも彼の服はすべてが自分がデザインした自作の服で横にいるのが恥ずかしくてたまらなかったといいます。他にも人形が非常に好きだとか、非常に変った人であったようです。彼の父は何をした人かというと読売新聞の創設者で男爵の地位までもらった人らしいです。そして彼の兄も外務大臣をやったような人で、たいへんな金持ちだったらしい。そりゃ教授のような給料だけでこんな派手な活動できるわけないですよね。彼の息子の大阪芸大の先生なさってた方に話を聞くと一代で使い切っちゃったらしいですね。それにもう一人、変なこだわりがあって、彼に雑誌の原稿を依頼するとすべてローマ字で書いて出すんですね。彼はローマ字主義者で何でもローマ字で書いていたらしい。私もそういう話ばっかり耳に入ってくるので彼にそんなに興味なかったんですが、福田晴虔氏によってそうじゃないんだとだんだんわかるようになったんです。彼が作った西陣織物館。世間ではマッチ箱にピラミッドを乗せたような建物だとバカにされているんですが、彼はこのころ「オートマテズム」というのに熱心だったらしいんですね。このオートマティズムというのはシュルレアリスムの用語なんですが、彼は建築を無関係なものから発想するとか人間の意志の入らないものを作ろうと考えていたらしいんですね。だからマッチ箱の上にピラミッドというのも彼が自分でそう言ったんじゃないですかね。


思えば、マッチ箱の上にピラミッドを乗せるなんてすごくシュルリアリスティックな発想ですが・・。この建築が(西陣のスライドを見せて)できたのは大正3年ですが、(正式には1924年大正13年であるが、昭和3年とか混乱しておられた)こうやって一見すると本当にやる気があるのかというような模索のない建物に見えます。でもよく見るとそうでもない。彼はベーレンスの火葬場の影響を受けていたようです。本人はそんなこと何も語らなかったのですが、彼と同じ頃留学していた構造の佐野力さんとうい人が、この人は建築に美なんていらない。ただ地震で壊れない建築を作りたいと思って、ドイツに渡ったわけですが行ってみて失望するわけですよ、自分の思うような建築が全くないと。そこで本野が面白いものがあるといって連れて行ったのが、ベーレンスの火葬場なわけですね。ここで彼は自分がやっと理解できるような建築に出会ったと感激するんです。本野は自分では何も語らなかったのですが、相当ベーレンスについて研究していたようですね。これは形がどうこうではなく建築に幾何学的秩序を与えようというものです。かつての建築が持っていた様式・仕上げ・ディティールというものに変る新たな意匠として幾何学を考えたわけです。本野自邸もそのようにつくられました。しかし結果日本中で無視されるわけですね。そして次の年、表現派の豊多摩監獄が大絶賛を受けるんです。分離派は1920年、会を組織して大阪でも講演を朝日会館で行うんですが、5人が参加して客が3人だったらしい。とにかく大阪では人気がなかったのです。その彼らはボリューム、マッスと言われたりしますけど、それが大事であるとしていたのです。
本野自邸はそうして世間的評価を全然受けなかったわけなんですけれども、歴史家としてはよいものはよいとして評価してやらなければなりません。この建物は何をやったかというとコンクリート表現をどうするかというのに答えを出したのです。当時、どうコンクリートで表現しようかと皆が悩んでいました。そこに1928年打ち放しというスタイルがチェコ人のレーモンド自邸と、この本野自邸で行われるんです。レーモンド自邸は現存しませんが、私は行ったことがあるんです。建築探偵をしていて偶然この家を見つけたから入ったんで、今思えばもっと真剣にカメラ撮ってたらよかったなと思うんですが、当時は打ち放しではなくペンキが塗ってありましたが、壁のゴツゴツのあとは打ち放しの形をとどめてました。彼は生きていたんですが、ペレの本や雑誌の切り抜きがいっぱいありましたね。彼はそうやってペレの作品を研究してどうやったら打ち放しでいいスタイルになるかと相当考えたようです。しかし、全く評価されない。それで彼は一時的に打ち放しをやめちゃうんですね。
本野自邸はどうかというと、これも同僚の知り合いに本野トウイチという大阪芸大でテキスタイルをやってた精吾の子息がいて紹介で見せてもらったんです。このとき彼の事を知らなくて売れない芸術家なのかなと思ってたんですが、彼が死んだときに国立美術館ですぐ回顧展が行われるほどの人だったんですね。もっとそれなりに接しておくべきだった。実はこの建物は打ち放しではないんです。中村チンという人と協力して作られました。でも加工しない生の表現としてやったようです。ブロック造なのですが、ブロックと接合するモルタルの砂の混ざり方が似ているから打ち放しのように見えます。しかし、その後、鶴巻邸というRCの建物があることを教えられたのです。前から知らないわけではなく。この建物の近くに日本初のRCで作られた橋があるのですが、それを見に行ったときに「変な灰色の家があるな」というくらいで見てたんです。これは同じく京都工芸繊維大の先生をしておられた方の家です。デザイン的にはもう一つですが、柱などはまさに打ち放しなんです。でも、あるべき型の跡がない。よく見ると小叩きしてあるんです。やはりそれぐらい打ち放しというのは未完成という見方が多かったのでしょう。この本野はペレの影響を受けたかというとどうやらそうではない。素材をできるだけそのまま飾らずに使うという思いでこうなったのでしょう。西陣でもわかるように、彼に造形的天分があればもう少し評価されたかもしれないですね。


(以降、後日記載)