上質のものを長く

先日、仕事で某キッチンメーカーに提案を依頼した。
今週、プレゼン資料を届け来てくれ、プレゼンテーションとともにキッチンについての話をうかがう。

日本の市場が“長持ちさせよう”ということを意識した構造になっておらず、
必然的に販売者の側も、「修理するより、あと○万円追加すれば新しいものが買えますよ」
というアプローチの仕方をする。
製品自体もその流れを念頭に置いた設計コンセプトとなっている。


今でも多くの人が「海外の機器は壊れやすい・アフターフォローが雑・交換部品が効かない。」といった
先入観を持っているが、欧州のメーカー(一部のメーカーかも知れないが)では、キッチン周辺の機器
(食器洗い機、コンロ、オーブンなど)において、そのような問題点は改善され、日本よりも優れた部分も多くある。


どちらを選択するかは、個々人の価値観の問題。
そもそも海外の製品と日本の製品では、製品を作るスタート地点で発想が異なっている。
食器洗い機を例に挙げれば、海外の製品は(当たり前だが)「食器を洗うこと」がコンセプトになっている。
一方、日本の製品は、様々な便利機能が付いていて、食器を早く乾燥させる機能もついている。
しかし、食器を加熱乾燥させる行為は食器を痛めることになり、欧州の人はそれを嫌う。
欧州では自然乾燥させる食器洗い機が主流である。


キッチンを販売するアプローチの仕方と食器洗い機の開発理念は、共通の価値観から導かれている。

キッチンメーカーの方が話された際は、その日本と他国の文化の違いをはっきりと理解できた気でいたけれども、
あらためて頭のなかで再現してみて文章に起こしてみると違いをくっきり示せない。
しかし、違うのは明らかだ。


最近、「日本人はやっぱり優れた国民だなぁ」ということを自負する情報がテレビでもネットでも多いが、
このキッチンのことで示される日本人の鈍化している部分は、もっと自覚するべきだと思う。


だけれども、客としての個人単位では、あまりその理念を貫けないような産業構造(かえって損をするしくみ)になっており、
また、その流れ前提でお金も循環しており、根深い。


「上質のものを長く」


大きな企業はこのようなコンセプトを示すことは困難だと思う。
(成長しなければならないし、雇用を維持しなければならないし)


設計者不在でも建物が建てられる現在において、
設計者の役割はそこを提供することにあるのかもしれない。


現在の日本人をとりまく環境では、多くのユーザーのニーズだけでは、正しい方向に至れない気がする。

じっくり

夕方、自室のとなりの部屋で読書。
隣室は西向きのバルコニーのあるプライバシーがあまり保たれない部屋だが、
光の入り方が適度であり、心地よい風も抜けて快適。
10年前までは自室として使っていたこともあり、
当時の感覚もよみがえり、自宅にいながら日常から少し脱する。


今年4月に発売された中沢新一氏の対談集「惑星の風景」を読む。
そこで語られる内容は原発問題や様々な現代的な問題も含んでいるが、
吉本隆明梅原猛南方熊楠折口信夫柳田國男宮沢賢治河合隼雄小林秀雄
レヴィ=ストロースカール・ユングといった中沢新一氏が信頼を置いている先人の考えを
含んで述べられ、初めて読む本だけれども、親しみを持って読め、心地よく、イメージも膨らんだ。
それぞれ一人ひとりは「折口学」、「・・学」と言われるような立派な思想体系をなしている人ばかりで、
私は彼らを充分には理解できてはいないのだろうれども、勝手に親しみを覚えており私の蔵書も建築以外は彼らが中心。


大人の本が読めるようになってからずっと、
中沢新一氏が関心を持っている事象、人物、文化にとても興味がある。
おそらくいつからかそれは癒着してしまって、
彼の受け売りなのに「私の考えと全く同じだ!」という状態になってしまっている。


新しい情報の場合は、「ここからエッセンスを早く、正しくつかまなければ」という読み方をしてしまい、
読んでいる時間を純粋に楽しめないが、今日は読んでいる時間を楽しむことができた。
その感覚を味わうと、Facebookなどに断片的な自身の出来事の情報を書き込んでいたことに違和感を覚えた。
それらを投稿しているときは、ひとつのまとまりのある出来事のように思えるのだけれど、
やっぱりそれは、断片的すぎて、意味を持ち得ないのではないか・・・と。
コミュニケーションと情報開示を混同させてしまっていたのだと思う。
少なからず、自己承認欲求があったから、投稿していたのだけれども、
そこで本当にコミュニケーションを欲していたのかと言えば、そうでもなかった。


関連して梅原猛著作集19巻「美と倫理の矛盾」に収録されている「孤独と創造」というエッセイを読むと、
ニーチェマルクスの孤独(周囲の人々の無理解、孤立)について述べられていて、
その状態があったからこそ、歴史的な著作が完成したのだと述べられていた。
(ただこのエッセイで言わんとしているところは、
「だから私も喧騒なだけの大学教授の職をすべて辞めて孤独に創作します)」ということであるのだが・・)


10年前、この隣室で寝起きしていたころの私は、
今よりもずっとコミュニケーションの少ない生活、そして一つのものを生み出すにとても時間を費やす生活をしていた。
それはそれで価値あるものだったし、今のやり方よりもあるいは正しいのかもしれない。
親しみある情報をじっくりと時間をかけて読み込むということが、自身の一番の理想的とする生活かもしれない。
とも思った。老後にとっておくのはもったいない。

集合的な郷愁と想像

国立国際美術館で5月27日から開催されている
「ノスタルジー&ファンタジー 現代美術の想像力とその源泉」展を鑑賞する。
展示されているのは以下10組の現代美術作家


北辻良央・柄澤齊山本桂輔
小西紀行・橋爪彩・小林陽介
須藤由希子・棚田康司・横尾忠則
淀川テクニック

B3階【現在の展覧会】 | 現在の展覧会 | 展覧会 | NMAO:国立国際美術館
チラシのウラには下記のような文章が記載されている。

(前省略)

本展では、ノスタルジーに固執する人間の意識の本性と向き合いながら、
それを独自のイメージの世界へと昇華させた作品を取り上げたいと考えます。


一方で、彼らの作品が見るものを惹きつけるのは、
現代を生きる私たちもまた、こうした心情を共有しており、
それは時代の風潮というふうにも考えられるのではないでしょうか。


未知の表現を目指す現代アートと、過去を指向するノスタルジーという心情はまるで反対向きに思われますが、
現代という時代は、この二つを結びつけているようにも思われます。
本展で紹介する、世代も作風も異なる作家たちの個性的な表現活動は、
一見、脈絡のない個人的領域に属するものに見えますが、
ノスタルジーとファンタジーという視点を設定するとき、
それらに共通する一つの世界像が見えてくることでしょう。

キュレーターの意図どおり、
ノスタルジーという共通項で見てみて初めてアートを感じれる作品も多かった。

例えば、横尾忠則さんは今回の出展者の中でも特に有名なアーティストであるが、
企画テーマの視点で眺めて初めて、その価値が理解できる気がした。
(それまでは、よくわからないシュールなポスターとしてしか彼の作品を捉えることができなかった。)


(↑淀川テクニックの作品(撮影可能の作品))



今週は、移動中、就寝前、ユングに関する書籍を読んでいる。
講談社選書メチエ42 ユング アンソニー・スティーヴンス著)
まだ、半分ほど読み進めたところであり、書評的なまとまった感想は持てないが、
個人的に彼の考え方はなじみやすいし、自身の気になっていたモヤモヤの謎解きがされるみたいで心地よい。


なかでも意識・個人的無意識・集合的無意識というイメージは興味深い。



プロダクトデザインに対して芸術は(建築家的な作品も含めて)、ひとりよがり、自己満足的なもの。
と言われたりもするけど、おそらく意識の部分での同感ではなく、
集合的無意識の部分での同感が伴っているのだと思う。
(ひとりよがりであるがゆえに、ひとりよがりでないというような・・)


チラシの裏面に見られた「個人的領域に属するものに見えますが」という断り書きは、
このあたりのことと関係があり、
個人的領域の探求は他者と断絶しているわけではなく地下水脈で他者と通じているのだろう。
(古代の人々の感覚とも、未来の人々の感覚とも)


そういった確信をユングは持っていたし、
また多くの美術作家も、そう思っているのだろうと思う。

ユング (講談社選書メチエ)

ユング (講談社選書メチエ)

2つの価値観

朝、録りためていたテレビを見る。

●「トルストイの家出」
Eテレで2010年に放送された晩年のトルストイとその妻ソフィアの日記をたどる番組。
トルストイが彼の理想・思想に基づき遺言で著作権の放棄など財産を社会へ還元しようとするのに対して、
ソフィアはあくまで現実的に家族を養っていきたいと拒み、激しい確執が生まれる。
トルストイの日記には「私とソフィアは人生の意義と意味を正反対に理解している・・」と述べられていて、
トルストイもソフィアもノイローゼになるほど苦しみ続け、
結局、トルストイは82歳という高齢で体調が悪いのを押しても家出を決意し、無理がたたって一週間後に亡くなる。
おそらくどちらも悪くはないのだろうけれども、「どうしてわかってくれないんだ!」と苦しんでいる。
(結局土地などの財産は子どもたちの手元にも周辺の小作人にも渡らずソビエト共産党に没収されてしまう)


●「太宰治 短編小説集 グッド・バイ
これも2010年にNHK-BS2放送されたもの。歌手のUAの朗読と
美しいアーティスティックなアニメーション
この作品に限らず、このシリーズで放送された作品はどれも美しく、
かつ太宰治の空気感・芸術性を上手く再現している。


●「週刊ブックレビュー」ゲスト 朝吹真理子
これも2010年NHK-BS2に放送されたもの 小説「流跡」が単行本として発売されたのに合わせての出演
言葉の使い方がゆっくりでとぎれとぎれであるが、繊細でかつ新鮮。
古語辞典を読むのがお好きと伺ったんですが・・」という守本奈実アナの質問に対して
以下のような回答をされる。

匿名の人たちの規則音(?)とか生きていた匂いとか気配とかをすごく知りたいと思う。
角川古語大辞典などすごくおっきい辞書を開くと全部のページに絶滅してしてしまった言葉たちがたくさん並んでいる。
確かにある時代まではきちんとした運動ができていたのにどういうわけか今は伝わらない言葉としてある。
当時の人々の匿名のくちびるの痕跡みたいなものが言葉一つ一つにたくさん折り重なっている気がしてその声が聞きたと思う。


言葉に対して私は彼女ほどのこだわりや関心はないけれども、
彼女の感覚がとても理解できる。

流跡

流跡

(↑文庫版は明々後日5/28発売)


昨年購入した大田俊寛オウム真理教の精神史−ロマン主義全体主義原理主義
に記載されているロマン主義の解説を興味深く読む。

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

1800年ごろに生まれたロマン主義は近代思想における2つの潮流のうちの1つとされ(もう一つは啓蒙主義
以下の様な特徴を持つ。

1:「感情の重視」
啓蒙主義において、人間に普遍的に備わる理性が重視されるのに対して、
ロマン主義においては、個人の内面に湧き上がる独特の感情にこそ、人間の本質が現れると見なされる。


2:「自然への回帰」
啓蒙主義では、理性に基づく世界秩序の解明や社会建設が企図されるが、
ロマン主義では、人為的な所作を捨てて自然に回帰するべきであると主張される。


3:「不可視の次元の探求」
啓蒙主義では、すべてのものは理性の光によって照らしだされると考えるが、
ロマン主義は目には見えないものこそが世界の基底になっていると考え、その存在を探求する。


4:「生成の愛好」
啓蒙主義では、明晰な記述によって事物の本性を固定的に捉えることが目指されるが、
ロマン主義では、常に変化し続けるもの、流体的なものが愛好される。


5:「個人の固有性」
啓蒙主義は人間が合理的な契約を取り交わすことによって社会を形成しうると考えるが、
ロマン主義は人間の共同体が成立するためには契約などでは生み出しえない民族的固有性が不可欠であると主張する。


全般的に言えば、啓蒙主義がフランスやイギリスといった近代化先進国で進展し、
自然科学や政治学に重心を置いていたのに対して、ロマン主義は近代化後進国であるドイツで興隆し、
文学や芸術論、および宗教論に重心を置いていたと見ることができる (52頁)


ここで述べられるロマン主義は私が重視している感覚と近く、私も啓蒙主義だけでは満足できない。
トルストイロマン主義の作家ではないけれども、トルストイと妻ソフィアにおける人生の意義と意味の違いは
この主義の違いによく似ている気がする。
そしてソフィアのような考えを持つ人たちは今もたくさんいてそれはそれで正しいのだと思う。

ブランディングと魅力もどき

最新のLIXILのキッチンカタログを見ると、
キッチンよりも、ついこの美しい女性に眼が行ってしまう。
(名前はわからないが、様々なアングル、動作で彼女が登場する)

彼女とは別に柴田文江という女性の名前が記載されている。
彼女はコンロのデザインに携わったデザイナーであり、
日本デザインコミッティーのメンバーでもある著名なプロダクトデザイナーのよう。
Design Studio S
私の机の引き出しに入っている体温計も彼女のデザインしたものだったのだと今日知った。


彼女の名前をamazonで検索するとまだほとんど関連書籍はないが、
昨年購入していた「小さな会社の生きる道。」(中川淳 著)が表示された。
本棚から取り出して探してみると。
庖丁工房タダフサの包丁のデザインに中川淳(中川政七商店13代)プロデュースのもと、
彼女がたずさわっていることがわかった。


なんとなく頭がデザイン寄りになり、
以前ブックオフでまとめ買いしたAXISをあさっていると、2007年6月号で
ブランディングに対するいくつかの反省から」という特集が組まれているのを発見する。

「ブランドはつくるものではなくて、でき上がるもの」
あらためてそう思います。

まずいものをまずいと言わずして、
パッケージや広告のデザインだけを褒めるようなことをしてはいけない。

見た目のデザインを語る以前に、われわれが理解すべき、
あるいはデザイナーが口を出すべき大事なものがある。
それがわかっていれば「うちはブランディングやってます」とか
「今度ブランディングやりましょうよ」なんて、軽々しいことは言わなくなるはずです。
まるで、ものを売りつけるためだけ、仕事をもらうためだけに使われる「ブランディング」。
こんな本質のない、あやふやな言葉は使わないほうがいい。

いくつかの本質があるブランドの事例を引きながら
(引かれていたのは男前豆腐店、モーター・エンターテインメント、
神田明神ブルーノート、スプーン、トランスポート・フォー・ロンドン、和歌山電鉄貴志川線
以上のような反省が述べられている。


この特集からもう7年近く経過しているけれども、
当時よりもより一般化した言葉となった「ブランディング」の教科書的な本では、
このような教訓・自戒はおそらく誰でも述べられていると思う。
ただ、なんとなく真似しようとした時に、ついしてしまいそうになる。


先日読んでいたある著名人のFacebook

・・・・
外側に、恥ずかしくない魅力や
認めてもらえそうな強みを作って
必死にアピールしようとする。

それ、魅力もどきだよ。
だから広がらないんだ。

という詩のようなものがあり、
すべて引用すると、とてもスピリチュアルな内容になってしまうのだけれど、
「魅力もどきをせずとも、すべての人にそれぞれの本当の魅力が、
存在しているはずだ」というようなことを諭している。


これは個々人のみならずプロダクトのブランディングでも共通して言えることだろうと思った。

老舗を再生させた十三代が どうしても伝えたい 小さな会社の生きる道

老舗を再生させた十三代が どうしても伝えたい 小さな会社の生きる道

ポリティカル・コレクトネスとファストファッション

先週記した山本耀司氏のインタビュー集「服を作る」を読む。


おそらく彼らを経営的に圧迫していると思われるファストファッション
そのファストファッションの否定の仕方は率直で自身の服作りへの自負が感じられるものであった。


Q:ファストファッションをどう思いますか?
A:「テレビの低俗番組と似ていますね。その瞬間、楽しければいいという。」(137頁)


Q:ユニクロの商品を買ったことはありますか?
A:「ないですよ。あれは大半のメーカーだったら作れるものですね。
ところがユニクロのうまかった点は、ブランドにしちゃったというところ。」


Q:気になるファストファッションブランドがありますか?
A:「ないです。みんなひとくくりになっちゃってます。」(137頁)


Q:無印良品をどう思いますか?
A:「ちょっと複雑だなあ。自己顕示欲の強いデザイナーの服なんか着るのがダサいという気分に
達した人たちの間で、別にブランドなんかいいんだというムーブメントがあった。
ブランド名なんかないもので、よくできているものを作ろうと、
田中一光さんや小池一子さんたちが西武に頼まれて作ったものですよね。
始まったころは「うまいこと始めたなあ」と感心し、何だかクレバーなブランドに見えました。
でも付き合ってみてわかったのですが、本音はほかのメーカーと変わらないなあと。」(138頁)


別のところでも言及している。


「今、世界のファッション界では、手頃な価格でトレンドを盛り込んだファストファッションなど、
巨大資本が力を持っています。ビジネスだから、服は売れなければだめだけれど、
アンチテーゼなどない時代になってしまった。
それに、インターネットなどの普及で、すぐに情報が集められるようになり、便利にはなりました。
でも、自分の中で必死になって考え、ものごとを突き詰めていくということが、だんだんなくなった。
すぐ見ることができるし、すぐ手に入る。だから、何かに思い焦がれる機会も少なくなった。
かつて1990年代にベルギー・アントワープ王立アカデミー出身のデザイナーたちの勢いが
パリコレで増していったころには、「これは新しい時代が来るな」と思ったことがありました。
2010年2月に自殺してしまったイギリス人のデザイナー、アレキサンダー・マックイーンが登場した時もそう。
競争しているという感じと、同時に「おれは特別だよ」という気持ちが併存していたんです。
でも今は、パリコレ全体が目標を失ってしまいつまらなくなってきている気がします。


作家の坂口安吾の言葉を借りれば、
「それを表現しないと、死ぬしかない」というくらい追い詰められているのか、
という自分への問いかけが作家にないと、本当にいい表現はできない。(9頁)


Q:「日本の女性のファッションをどう思いますか」
1960−80年代に比べると、今の日本の女性のファッションは堕落しております。
保守化し、堕落しています。要するに本人の意志がはっきりしていない。で、
流行のものを着ている。何かのグループに属することをよしとしている。
その人だけ特別なものという感覚がほとんどなくなってしまった。(141頁)

戦後に入り多くの人が小さくとも持ち家を持てるようになった(国の政策の影響もあると思われるが)と同様に、
ファストファッションの台頭により、多く人が着衣ではなくファッションをするようになった。
その底上げ、フラット化によって与えられた持ち家、ファッションは、
トップクリエイターの眼から見ればつまらないものなのかもしれないが、
そのことを率直に発言することははばかられる。


先週、宮台真司さんがゲストのラジオ番組で昨年のカンヌ映画祭パルムドールを受賞したフランス映画
アデル、ブルーは熱い色」の評が述べられていた。(映画公式サイト←注:音が出ます
「この映画は単なる同性愛女性の恋愛映画ではなく、階級の問題を扱った社会映画である」と。
「フランスでは今でも庶民と上流で階級差があり、哲学に関する素養など階級での常識があり、
いくらお金持ちになっても、それらの文化的素養がなければ認めてもらえない。
よって、階級を超えた恋愛は難しい。映画では片方の浮気に片方が激昂し別れるという展開になるが、
それはポリティカル・コレクトネス(偏見や差別を含まない中立的な表現)に配慮したもので、
実際は、階級という超えられない一線を描いている。」とのこと。


以前、宮台氏は同じラジオの別の回で、
日本文化のキーポイントの一つとして「文脈の自由化」があると述べられていた。
「文脈の自由化」とは、所属階級や人種に関係なく楽しめるコンテンツであるということ。
無表情の美学 - 心象図録


ファストファッションは何も売れる服を作ろうという安直な発想でスタートしてはいないし、
また着る人自身も耀司氏がバッサリ切り捨てるほどファッションの何たるかを理解していない人々ではないと思う。
ある意味、ユニクロ無印良品の製品はこの「文脈の自由化」を志向している極めて日本的な製品とも受け取れる。


ポリティカル・コレクトネスという言葉を初めて聞いたけれども、
ポリティカル・コレクトネスなどの倫理感を身につけている人と、
自身が努力して身につけた知識と技術とセンスに誇りを持って、
そうでないものに「残念だ。堕落的状況だ。」と批判を行う人。
どちらがいいのだろう。
これはニーチェが嫌悪したキリスト教的精神と
ニーチェが志向した「超人」との違いみたいに100年以上前からある古典的葛藤なのかもしれない。


私自身の中でも、どちらのスタンスも取りたくなる自分がいる。
(後者の立場を取りうる能力があるのかどうかは別として)

服を作る - モードを超えて

服を作る - モードを超えて

中国の消費、負の美のニーズ、買った本

朝、フジテレビ系の番組「新報道2001」の「迷える中国の実像」という特集を見る。
なかでも中国の都心部の若者に増えているという「月光族」についての取材は興味深かった。
月光族」とは月の給料をその月のうちに使い切ってしまう人々のことを指す。
その理由は物価・賃金の急上昇で貯金している貨幣価値が相対的に目減りするからといった
一見合理的な社会背景もあるが、多くの場合は単純に計画性無く刹那的に「今を楽しもう!」
と欲求に従順に行動しているのだと思われる。


彼らが刹那的に消費するきらびやかなものうまいものの多くが、
日本が提供する製品・食材・コンテンツであり、
こういった世代の消費を単純な数値として見て、
「中国はいま乗っている。もっと中国に販路を拡大せねば。」
と判断するのは、とても悪いことのように感じられた。
しかし、同じこと(盲目的な消費刺激)は国内でも行われていることであり、
私自身が当事者であるから見えない部分も多くあるのだろう。
今、自動車メーカーが行なっている若者に自動車の魅力を啓蒙するキャンペーンもどこか似ている。


私も情報渇望感という消費刺激が影響してか本を多く買う。
(3,4月計22冊購入)

ファッション関係(ファッションの美術展に行きまとめ買い)
・服を作る - モードを超えて 山本耀司
・+Future Beauty
・Future Beauty 日本ファッション:不連続の連続 展覧会図録
・men's FUDGE 2014年 06月号(←これはコンビニで購入)

建築関係
・Peter Zumthor 1985-2013: Buildings and Projects5冊セット
・S造設計[構法・テ゛ィテール]選定マニュアル
・魅せる開口のディテール
・最新版 [住宅]設計監理を極める100のステップ
社会学関係
・身体知と言語―対人援助技術を鍛える
・北欧デンマークの障がい福祉の今
・図解 福祉の法律と手続きがわかる事典
文化人類学関係
現代思想 2014年5月臨時増刊号 総特集=折口信夫


以下10冊は中古本
建築関係
渡辺篤史の建てもの探訪BOOK
・アーキテクト・スケッチ・ワークス 02
・NA選書 新しい防災設計
ビジネス関係
・新版MBAマーケティング グロービス
・結局、女はキレイが勝ち 勝間和代
・ビジネスの成功はデザインだ 神田昌典
星野リゾートの教科書 中沢康彦
その他
親鸞和讃―信心をうたう
デジタルカメラマガジン 2013年10月号
・夜と女と毛沢東 吉本隆明辺見庸 (2000年07月)


ケアという概念に関心を持って書店を眺めていたら、
ミネルヴァ書房からちょうどケアについてのシリーズが刊行されていた。
講座ケア―新たな人間‐社会​像に向けて
1:ケアとは何だろうか 広井 良典
2:ケアとコミュニティ: 福祉・地域・まちづくり 大橋謙策
3:ケアと人間: 心理・教育・宗教 西平 直
いずれも3780円と少し高価なのでまだ買わなかった。
広井良典という名前に見覚えがあったので、
帰宅して検索してみると一昨年引用した定常期社会の概念の方だと頭の中でつながる。
マルチプル(多様性)な人、社会 - 心象図録


時代の要請としても、この概念を考えることは避けては通れないと思われる。
であれば、人よりも先行して・・と思いもする一方、
ピーター・ズントーの作品集の下のようなクリエイションに強くこころひかれもする。

(聖コロンバ教会ケルン大司教区美術館の模型とその他の模型、スケッチ)


学生の頃からぼんやりと「デザインよりもアートをしたい」と思い、
その違いに自覚的であろう考えていた。
ここで侮蔑的に位置づけている狭義の意味でのデザインでは、
老いや、病いや、死や、弱さ、貧しさを価値あるものと認識できない。
アートではそれが可能で、なおかつそれらの負の要素を通じてしか表現できない美しさがあり、
もののあわれなど日本の芸術表現・美の概念はその要素を中心として成り立っているはずだ。
と今でも思う。
時代のニーズと自身のクリエイションの欲求のニーズをいかに接合するかが問題だけれども、
このブログを始めてからずっとこの周辺を逡巡している気がする。